大学の意義
高校生の時に抱いていた大学のイメージは「自由」であった。入学してからも、大学は期待を裏切らなかった。
「自由」、「遊び放題、バイトし放題」、「サークル」、「飲み会」
日本での大学生活を振り返ってみて、私の頭の中に浮かぶものはこの四つだ。「ゼミ」ということも考えられるが、ゼミには三ヶ月ほどしか参加していないので何とも言えない。
バイトやサークルを通してたくさん学んだこともある、大切な仲間も得られたから、そのこと自体にはとても感謝している。
しかしオーストラリアの大学で勉強をし始めて、こっちの大学生がしている勉強と、日本の大学生がしている勉強の違いに衝撃を受けた。
大学や学部にもよると思うが、私は文系経済学部出身ということもあって、テスト前に詰めて勉強することだけできれば困ることは一切なかった。学校に行って授業を聞こうとしても、いつも興味の矛先は黒板でも、レジュメでもなく、手に握っているスマホだった。私にとっては、講義を聞くことはお経を聞くような感覚だった。単調な言葉を連ねてお坊さんが唱えるお経を聞くことはなかなか苦であった。しまいには、お経を聞く意味を見出せず、授業に行くこともなくなった。(以下、文系経済学部という私の主観と経験をもとに書いているので、当てはまらない方もけっこういると思いますが、私の意見なのでご了承を。。。)
オーストラリアの大学では一つのコースに対して大体一時間または二時間の講義に加え、一時間か二時間のチュートリアルという少人数制の演習科目がある。授業こそ面白くないなというときもあるが、チュートリアルという少人数のクラスはとても身になるものが多かった。
前のセミスターでとっていたマーケティングの授業では、セミスターを通してグループでZARAのマーケティングプランを作り上げるという課題があった。その課題を通して、講義で学んだ概念を用いて、それを応用することができた。週一でグループで集まり、それぞれが調べ上げたことなどをシェアし、最終的には、50ページほどのマーケティングプランを三人で作り上げた。
実際に講義で学んだものをグループワークやディスカッションを行ったり、エッセイを書いたりすることで、自分が学んでいるものが本当の意味での「身についている」感覚があった。
「大学は社会人になるための準備期間である」
オーストラリアの大学で、学期始めのオリエンテーションである人が言っていたことを、最近身をもって感じた。
インターン先で、今ウェブマーケティングをしているのだが、インターンの最後にはレポートを提出することになっている。自分で作ったアンケートを通して得られたことを分析し、それを用いてこれからどのようなマーケティングプランを実行していくかについてまとめることになっている。
そのレポートの例を見してもらうと、それはまさに、大学のマーケティングの授業で出されたマーケティングプランの課題と同じ形式であった。この時、私は「大学の意義」を初めて感じることができた。
大学で学んだことが、実際に働きだしたときに目に見えて役立っていることが分かって、とても嬉しくなった。
と同時に、私の中で「日本の大学の意義」が暗闇の中に消えていった。
教授がひたすらに一時間半しゃべり続け、たまに出てくる課題は、友達と見せ合い、たとえ疑問だらけでも、提出というゴールだけ達成すればオーケー。そもそもその課題というものも、大体いくつかの問題をクイズのように説いていくパターンのものばかりだ。
でもどうだろうか。実際に働いていく中で、上司の話を一時間半聞き続ける場面があるだろうか?クイズの解を求める場面があるであろうか?
もしあるとすれば、教授の話を一時間半聞く修行や、クイズゲームをクリアすることは「社会人になるための準備」として認められるだろうから、「日本の大学の意義」は少しあるかもしれない。
しかし、私はそうは思わない。そのような非効率で陳腐な作業はお給料をいただいてまでするようなものではないはずだ。
私が言いたいこと、それは、「日本の大学の意義」を再考してみる必要があるということだ。
今のままであるのならば、大学は必要ないと考える。大学に通わず、その時間インターンなり、自分が熱中できることをしたほうがよっぽどましだ。○○大学卒という肩書きのためだけに大学に通うことはとてももったいない。
最近このようなことを考え出して、海外の大学で正規生として勉強したかったという思いがとても強い。自分の子供には海外の大学に進むことをおススメしたい。
日本の大学がもっと効率的で、生産性のあるものになれば、日本の社会にも大きな影響がいくと思う。「社会人になるための準備期間」を学生に与えてあげること。それが大学の意義ではないだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?