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そのスマホの明かりは、どこからやってきた? | 再生可能エネルギー福島視察レポ


『支払い期限は3月3日(水)です。』

ガスの最終支払い勧告のハガキを確認した時、すでに深夜をまわって3月4日だった。

給料日のすぐ前に口座から引き落とされるはずのガス料金。
毎月きっちり給料を使い切るから、引き落とされる前に口座の中身が空っぽになるのはよくあることだった。

今までは、1回目のハガキ通知が来た時点でなんとか支払えていたけど、年を明けてからの仕事状況がやってもやっても終わらないハムスターラン状態で、チラシがたまるポストを横目にベッドに直行する日々が続いていた。
期限をすぎてもガスが止まることはなかったけど、いつ止まるのかと怯えながら毎日シャワーが温かくなることに安堵するという、ガスとわたしのチキンレースが幕を開けた。

きちんと支払いをするためには、日中に電話をかけるハードルを越えなければならず、明日やろう明日やろうと思ううちに、3月9日になった。

わたしは会社の出張で、福島県へやってきた。


エネルギーのことなんて
何も知らなかった

勤めている会社で福島県飯舘村にある飯舘電力(いいたてでんりょく)のPR動画の制作をお手伝いしたことをきっかけに、再生可能エネルギーの視察のために福島県へ足を踏み入れた。

再生可能エネルギーとは、風力発電、太陽光発電、地熱発電、水力発電、バイオマス発電の5つことで、自然の力を借りて電力を生み出していくもの。
自然の恩恵に預かるため、初期投資以外のコストがほとんどかからず、地球を汚染することもない。世界にはすでに再生可能エネルギー率100%の国もあるという。

福島県では、10年前の大震災での原発事故以降、原発に依存せずに自分たちでエネルギーを生みだそうと再生可能エネルギー事業を興している団体が複数ある。それぞれの発電システムの見学と、再生可能エネルギーに心血を注いでいる重要人物の方々に話をお伺いする機会を得ることになった。

普段、エネルギーについて考えたことがなかった。
wi-fiと電源がある場所を探し回ることはあれど、スイッチひとつで明かりはつくし、コンセントをみつければスマホは充電できる。
支払いを滞らなければ、いつでも好きに使えるもの、生活に当たり前にあるものとして、特段意識をすることがなかった。

もし電気がなかったらと考えてみる。人と連絡もとれず、夜を安らかに過ごすこともできず、仕事をするなんてもってのほか。文字通り生きていくことができなくなる。

ガスの支払いにはズボラさを発揮するけど、電気が止まるとなったら翌朝すぐに電話をかけるだろう。
さらに普段東京で使っている電気がどこからやってきているか。野菜の産地は気にかけるけど、電気の産地は気にしたことがなかった。

何を指して復興というのか


飯舘電力は、被災で人がいなくなり、生業がなくなった飯舘村の復興のために再生可能エネルギー事業をおこなう会社だ。2014年に村民の有志により立ち上がり、全国からの寄付や出資に支えられながら飯舘村の至るところに太陽光発電所を竣工している。

まずは、飯舘電力の千葉さんと米澤さんの案内で、飯舘村を周ることになった。

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左が千葉さん、真ん中が米澤さん

飯舘村は様々な不手際で、震災後の放射能汚染から1ヶ月以上経ってから計画的避難区域に指定された村。2016年から一部を除いて避難解除となったけど、村に戻ってきたのは6000人中1000人ほどという半分にもまるで満たない数。
綺麗に切り揃えられたように見える畑は、手入れが届いているのではなく、除染のために刈りとられたもので、汚染土が入った大量のフレコンバッグがところどころに積み上げられている。

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人の姿は見当たらない。

“村”という響きから小さな土地を想像していたけれど、車でめぐるその土地は想像の何倍も広くて、こんなに広いところから人がいなくなる恐ろしさをその時にはじめて体感した。

静かな村の中で、綺麗に整備された公園やこども園が異彩を放っていた。
若者が帰ってくることを願って補助金で建てられたそれらに子供たちの姿はなく、やたらと立派な遊具の姿は、ことさら人がいない寂しさを強調しているようだった。

10年経っても街が活気づくことはない。

10年前の震災当時、わたしは京都にいた。
大学のアートプロジェクトに参加していて、春休みだったこともありアーティストのスタジオに通い詰めていた。その日もスタジオにいて、お昼後にメンバーみんなで談笑していた時に、東日本大震災はおこった。

「大きい地震があったみたい。」
携帯を眺めていた人が知らせてくれた。
地震が多く、震度5や6はザラにある日本。そこまでおおごとだとは思わなかった。でも帰り道にtwitterを眺めていると、その悲惨な状況が伝わってきた。さらに家に帰ったその日から、ニュースが震災一色になった。
「ぽぽぽぽ〜ん」というCMが、頭の中でずっとループしていた。

それから10年。大学を卒業して、上京して、就職して、転職して、初めて福島にやってきた。
東京で暮らしていると、震災について、原発について、福島について、意識的に情報を取りにいかなければ、知る機会は少ない。
けれど福島の人たちにとって、震災から10年経っても途方もないほどにその爪痕は深く、未来のためにどうにかしようと戦っている人たちがいる。

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街のいたるところに、放射線量を測る機械が設置されていた。体に影響が出る数値ではないけど、それでも東京よりも何十倍も高い。
会社がある下北沢の駅前にこの機械はないし、福島にもなかったはずだ。道の駅の野菜売り場には、その場でその野菜がどれほどの放射能を持っているのかを知れる機械もあった。
常に放射能を意識しなければいけない状況は異常なはず。だけど、ある日を境にそれは日常に変わる。

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飯舘村のところどころに、飯舘電力が建てた太陽光発電所があった。足が長いものもあり、それは太陽光発電と農作物栽培を両立させるソーラーシェアリングだという。そこで牛が食べる牧草を育てているそう。飯舘村には、飯舘牛という名産品があって、震災後にたくさんの畜産農家がつぶれたけど、なんとか飯舘村の宝を復活させようと、できる協力を惜しまないでいる。

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飯舘牛。間近で見ると大きさに圧倒された。毛並みがふかふかそうで触りたい。

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もしも災害で電気が止まってしまったら、この箱をあけれらるようになり、そこにあるコンセントを使えるようになる。ここに炊飯器を持ってきたら、電気が止まっていても暖かいご飯を炊ける。


飯舘村の中で唯一まだ足を踏み入れることができない「特定復興再生拠点区域」の長泥地区。
目の前には監視員がパラソルをたてて常駐している。

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ここから先は、人が住めない。

ある日突然、暮らしていた街から出ていけと言われたら、どんな気持ちになるだろうか。東京での住まいがそうなったら、実家がある大阪に帰ろうとなるけど、実家がもしもそうなったら?
今までそこで暮らし、営なみ、人と関わり。その土地に馴染んだ体を無理やりひっぺがして、生活のすべてが詰まった土地を離れることは、自分の根幹がまるごとなくなることと等しいんじゃないか。
また別のところで暮らせばいいと簡単には言えるはずがない。その体には、消えることがないその土地の記憶が染み付いている。

想像はいくらでもできるけど、その苦痛は計り知れない。
わたしはまだ、福島のほんの一部に触れただけだった。


観光から考える、
温泉街の再生可能エネルギー

2日目は「元気アップつちゆ」がおこなっている地熱発電所と水力発電所を見学しに、土湯温泉へと向かった。

土湯温泉は歴史ある温泉街だったけど、震災以降客足がとだえ、多くの旅館の廃業が続いた。そんな大変な状況からの復興と再生、そして発展を願って立ち上がったのが「元気アップつちゆ」だ。
温泉の蒸気と熱水を利用した地熱発電と、温泉街を流れる急流部分を使った水力発電をふたつの柱としている。
地熱発電では、発電後の温泉水をオニテナガエビの養殖に活用し、そのエビを釣って食べられるカフェもあったりと、発電所と観光をうまくミックスしながら観光事業の活性化をはかっている。

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こけしが名物。お昼にそばをいただいた「味工房ひさご」の店主もこけし作りをしているそう。

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自然の中にある無骨で巨大な発電装置の迫力はすごくて素直に、かっこいい…!と思った。

「旅行はもう、食べて遊んで楽しいだけじゃ、人は満足しない」

と、土湯温泉観光協会会長の加藤貴之さんは言う。
その土地ならではの物語を体験しないと、心に残る旅行にはならないと。
そこで再生可能エネルギーを自分ごとのように体験できる旅行プランを日頃考えているそう。

旅行に行った先の電気が、その土地で作られたもので、わたし達を照らしてくれて、おいしいご飯を炊いてくれる。これからは食べ物や温泉だけでなく、電気もその土地を表すものになる。
はやく、土湯で発電しているエネルギーで地産地消をするのが目標だという。

でも、なんでいますぐに地産地消が叶わないんだろう?

再生可能エネルギー事業は、生み出された電力を東京電力などに売電し、利益をあげて、街の復興資金などに当てている。
本当の地産地消をするためには、その土地で生んだエネルギーを、その土地で使うことが理想。しかし現状、電気を各家庭に運んでいる送電網を使うことができない。
送電網を使うためには、電気の小売ができる会社を作らなければならず、福島の再生可能エネルギーに携わる人たちは力を合わせて、新電力の会社を作ろうと奮闘している。


福島県の再生可能エネルギー事業のドン

土湯温泉から1時間半ほど車を走らせ、会津電力の佐藤彌右衛門(さとう・やうえもん)さんに会いにいった。

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3月の福島は、まだ雪が残るところも


会津電力(あいづでんりょく)は原発に依存しない再生可能エネルギーによる社会づくりを目指して、福島県西部の会津地方で、有志が集い、2013年に設立された。
役員である佐藤彌右衛門さんは、大和川酒造店の第9代目当主。

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酒造にも見学へ。絹のようになめらかで柔らかい軟水から作られた日本酒は、口の中に入れた瞬間に、閃光がはしるようなおいしさだった。


彌右衛門さんは震災当時、酒屋だから水はたくさんあると、トラックに積めるだけ積んで電気も止まり水も止まった地域へ応援に駆けつけたという。
福島県会津地方は放射能の被害を受けなったが、何か自分にできることはないか。そう考えに考えた先が、再生可能エネルギーだった。
会津は自然豊かで、水力だけでも500万kwのエネルギー資源になる。それはなんと原発5基分。
原発がなくても、福島県は自給自足で発電できるはずだった。

なのに大都市東京の電力をまかなうために、原子力発電所が福島に建てられた。それでなんで原発に事故を起こされて、福島県がこんなことになるんだ。
「東京の植民地から脱したい。」
彌右衛門さんは悔しそうに言葉をつないでいく。

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左から2人目が佐藤彌右衛門さん

「お父さん、おじいちゃん、何やってきてたんだよって、こども達に言わせたくない。」
この地域の豊かさを次の世代につないでいきたい。その想いから、福島県が再生可能エネルギーの街にための発起人として立ち上がった。

会津電力は災害が起きた時のリスクを最小限に留めるため、小さな太陽光発電所を地域ごとに作っている。大きな発電所だと電力もたくさんできるが、もしもの時の被害が大きくなってしまう。

土湯温泉も大きな旅館から潰れていったという。お客さんがピタリと来なくなると大勢いる従業員の人件費が支払えなくなり、膨大な負債を一気に抱え込む。小さな旅館ほど、建物も平屋で被害が少なく、ふんばりが効いたそうだ。エネルギーも大きなものに頼るのではなく、土地それぞれで作られていけば、被害を受けてもはやくリカバリーが効く。

会津電力は太陽光発電のみならず、小水力発電、バイオマス発電、大型風力発電など、再生可能エネルギー全般に取り組む、まさに再生可能エネルギー界のドン。

彌右衛門さんは自分にできることは何かと、強く思った熱量のまま走り抜け、ここまで再生可能エネルギーを広めてきた。おそらくその先も、その熱量は衰えることはないだろう。


ローカライズされる
再生可能エネルギー



これからのエネルギーは、ローカライズしていくべきだと千葉さんは言う。

「いままでは大きい企業が単一のものをつくって、人々に売りさばいていたけど、それだけではやっていけなくなった。それは、エネルギーにも言えること。」

同調圧力の中で、集団からはみでないように、目立たないように足並みを揃えていた時代から、それぞれの考え方、生き方が尊重される時代へと。
集団によって個人の想いが殺されないように、みんなが声をあげる時代へと。
世の中がそう変わっていく中で、エネルギーもそうあるべきではないかと。

土地にも、それぞれの土地らしさがある。
水源が豊富なところ、緑が生い茂っているところ、太陽がサンサンと照るところ、温泉が湧きでるところ、風が全力で踊っているところ。
その土地の個性に合わせた形で再生可能エネルギーを導入することで、観光としても強い味方になる。エネルギーの地産地消を目指す動きが福島県からはじまっている。

不動産を持っておけば、いざという時でも生活に困らないというように、インフラを自分たちで握っておけば、いざという時でも生きていける。
生活の土台になる部分を他の人に握られていると、生きていく上での主導権がゆらいでしまう。

震災直後、みんなが復興のために一丸となった。
10年経ったいま、当初と同じだけの熱量を持っている人たちによって、再生可能エネルギーはつくられていき、その先の生活が支えられていく。


あっという間の福島2日間の視察だった。
知らなければいけないことがたくさんあった。知りたいことがたくさんできた。
少しづつ、エネルギーについて勉強していこう。
目の前のパソコンは、休むことなく煌々と光っている。

とりあえず今週末は、ガスの支払いの電話をかけます。

*参考文献 「でんきと未来の選び方〜福島・飯舘電力の軌跡〜」




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