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オスカー・クルマン『霊魂の不滅か死者の復活か』1955

マティアス・グリューネワルト『復活』


悲惨の裡にて我思ふ。カトリシスムほど人間の欠点を知り盡し、人間が抱く悉皆の悩みに答へ、人間を確信(=希望)へと至らしめて呉れるものはない。名立たる法学者、物理学者がカトリシスムを受容する所以である。

選択しなければならないのですから、最善のものを選びませう!(ヴィリエ・ド・リラダン『クレール・ルノワール』)

扨て、本書はオスカー・クルマンが1955年4月にハーバード大学で行つた講演の翻訳である。彼は仏蘭西人だが新教徒の聖書学者、エヴァンジェリカルの立場から、彼は「霊魂の不滅」てふ教義に疑問を呈する。

「霊魂の不滅」とは非常に微妙な問題である。だが公教要理には「霊魂の不滅」が明記されてゐる。故に私の立場は決してゐる。

70.人間に霊魂を与えるのはだれですか
霊魂は両親から来るものではなく、直接、神によって創造されるものであり、不滅です。霊魂は、死の瞬間にからだから分離しますが、滅びません。最後の復活のときに再びからだと結ばれます。(『コンペンディウム』より)

しかしクルマンによれば、「霊魂の不滅」といふ考へは、ソクラテスの講話で示されたもの。曰く、死は霊魂を身体といふ牢獄から自由にし、解放された霊魂は永遠のイデアの世界にあり続ける。故に霊魂は不滅、而して「死は霊魂の偉大な友」であると。

だがカトリシスムに於て、死はアダムの罪により生じた異常なもの。聖パウロも「その罪の拂ふ價は死(ロマ書6:23)」と云つてゐる。死は本来、神と相容れるものではない故に、イエズスはゲツセマネにて御身に逼る死を恐れられた。

アバ父よ、父には能はぬ事なし、此の酒杯を我より取り去り給へ。されど...(マルコ傳14:36)

「死」の捉へられ方が180度異なるのである。ギリシア哲学に於て、死は易易として受容するもの。カトリシスムに於て、死は贖ひによつて克服されねばならぬもの。イエズスは罪の贖ひの為、御身体と霊魂とに於て死を蒙つた。そして宣はれし如く、御身体と霊魂とに於て復活せられた。死の克服といふ神の偉大なる御業、神による「再創造」てふ奇蹟的行為!畢竟、霊魂は死なぬと云ふ考へは、この神の創造性を損ふ事に他ならぬ。

かなり簡略化してゐるが、以上が趣旨である。示唆に富む議論だ。再読し、蔗を噛んでいきたいと思ふ。その一方で、それでも私は霊魂不滅の教義を固持したいと思ふ。

身と靈魂とをゲヘナにて滅ぼし得る者をおそれよ(マタイ傳10:28)

  1. 霊魂を滅ぼし得る者は、その創造主たる神のみである。ならば尠くとも、洗礼に与つて終末での復活を約束された者、カトリシスムに帰依する者の霊魂は不滅なのだと、云ふことはできないだらうか。

  2. また著者自身も指摘してゐるが、ギリシア哲学とカトリシスムで同様の言葉(身、霊魂、肉、靈等)を用ゐていたとしても、それが含有する概念は一致しない。ユダヤ人の言葉が、寸分違はずギリシア語に翻訳されてゐる訳ではない、蓋し言葉とは、共同体の共通経験の自己表明であるから、完全翻譯は不可能。であれば、カトリシスムで云ふ霊魂不滅を、ギリシアのそれと結び付ける必要もなからう。

  3. 更に云へば、個人的に霊魂不滅てふ教義を気に入つてゐる為でもある。聖パウロに逼る深さを以てカトリシスムの奥義を把握してゐたパスカルさへ、霊魂不滅は認識してゐる。霊魂不滅を信ずることは、絶へざる良心糾問、常に崇高たらんとする志を維持するための必要事である。

日本の公教会はかような教義に就いて信徒を教育すべきである。私は子供への虐待に等しき教会学校の卑陋を嘆く。かような人類の重大事に一顧眄も与へず、ひたすら近代の思潮たるヒューマニズムに阿諛追従する近代キリスト教の陥つた誤謬は大きい。


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