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【古代オリエント6】 古代エジプト史概説

●世界史シリーズ Sec.6

 「古代エジプト」については,オリエント世界の中でも独自性が強いため,一旦,教科書のカリキュラムを離れて,古代エジプトの王朝史だけをザッと通して概観することにしました。

1) 特異なる3000年王国

 「古代エジプト」は,地勢的・文化的・歴史的に,他のオリエント諸国とは一線を画します。

 ナイルの豊かな恵みのもと,独自の世界観を育み,神の子ファラオを王として戴くエジプトは,オリエント世界でも特異な存在と言えるでしょう。

 古代エジプトの豊かさとその安定性は格別でした。前27世紀,既にあの巨大なピラミッドを造営できた国力は何だったのでしょうか?

 ナイル川の生む余剰生産物が,その最大の要因だったことは確かですが…
 メソポタミアと違って,近隣で金をはじめとする鉱物資源を豊富に産したこと,豊かさゆえ他国を侵攻する必要がなく,また地勢的にも孤立していたため,軍事に消耗しなかったことなど,さまざま考えられます。

 例えば,オリエント諸国間の政略結婚がさかんだった新王国時代,エジプト王家には他国から多くの王女が嫁いでいました。

 ある時,バビロニア王が見返りにエジプトの王女を要求したところ,ファラオの娘は昔から誰にも与えることはないと断られました。
 バビロニア王は不満を述べましたが受け入れられず,交換条件として大量の金を要求して手に入れたようです。

 結局のところ,決定権はエジプト側にあり,エジプト王家にはそれだけの権威があったということなのでしょう。

 何より特筆すべきは,その歴史です。

 エジプトの王朝時代の始まりは前3000年頃までさかのぼります。そして王朝交代を繰り返しながら,アレクサンドロスに征服される前4世紀まで続きました。

 この間,およそ2600年。王朝の分裂期や,異民族に支配されたり,世界帝国に征服されていた時期もありますが,「エジプト文明」は連綿と引き継がれていました。

 さらに,前30年まで続いたギリシア系のプトレマイオス朝を含めると,独立国家としての古代エジプト史は,およそ3000年に及びます。

 その歴史の後半は,メソポタミア,シリア・パレスチナ,イラン,ギリシア,ローマなどとの国際関係の中で展開します。

 ちなみに,古代エジプトが3000年の歴史を終えたとき,日本列島には「国家」と呼べるものの影すらありませんでした。

アセット 24

[図版]ナイルの賜物 〜古代エジプトの地勢〜
 古代エジプトの地理的範囲について,その南北は,地中海に面するナイル川の河口デルタからアスワン付近まで。アスワンより南は船の航行が困難なナイル急流地帯で,ヌビアと呼ばれます。
 その東西は,河口デルタ以外では,ナイル川両岸の狭い地域に限られます。それより外側には砂漠が広がり,古代エジプト人にとっては「死の世界」でした。
 メンフィス付近を境に,北のデルタ地帯は下エジプト,南のアスワンまでは上エジプトと呼ばれます。
 メソポタミアの開けた平原に比べると,外部から孤立した極度に細長い地域であったことがわかります。

2) 王朝時代の区分

 世界史の教科書で学ぶ「古代エジプト」は,文明の起こりと古王国・中王国・新王国を押さえるぐらいで…
 あとはイラン史やギリシア・ローマ史の中で,断片的に,その消息をうかがい知る程度です。

 内容を省略しすぎたり,細切れであちこちバラまいたりでは,因果関係や経緯がつかめなくなります。

 ここでは,一旦,教科書を離れて,純粋に,古代エジプト史の全体を通して見ておきましょう。

 古代エジプトの王朝史では,アレクサンドロスによる征服以前を,31の王朝(第1王朝〜第31王朝)に区分します。

 これは,前3世紀のエジプト人神官が歴史書の中で用いた方式で,今でもこの区分をベースにエジプト史研究が進められています。

 王朝の切り替わりは,原則として,先王の子ではない別系統の王が即位した時(王統が変わった時)を節目にしているようです。

 ただ,この31王朝には,異民族の王朝やエジプトを征服した王朝が混じっていたり,同時代に並存していた複数の国に順番をつけて並べていたりするため,注意が必要です。

 では,以下に王朝時代の区分一覧を示します。

●古代エジプト王朝時代の区分
▶︎初期王朝時代(第1・2王朝)前30〜27世紀
 上下エジプトを統一する王朝出現
▶︎古王国時代(第3〜6王朝)前27〜22世紀
 中央集権化,ピラミッド造営開始 → ギザの大ピラミッド
▶︎第1中間期(第7〜11王朝中頃)
 中央集権体制の崩壊,地方勢力の分立,のち上下エジプト分立へ
▶︎中王国時代(第11中頃〜12王朝)前21〜18世紀
 第11王朝がエジプト再統一,第12王朝が最盛期,のち小国家分立へ ヒクソス侵入(第13王朝の頃?)
▶︎第2中間期(第13〜17王朝)
 ヒクソスの第15王朝(下)と第17王朝(上)の対立
▶︎新王国時代(第18〜20王朝)前16〜11世紀
 ヒクソス追放 → エジプト再統一,シリア・パレスチナ進出,アマルナ時代,「海の民」襲来
▶︎第3中間期(第21〜25王朝)前11〜7世紀
 南北分裂,リビア系王朝成立,クシュ王国の侵攻,アッシリアによる征服
▶︎末期王朝時代(第26〜31王朝)前7〜4世紀
 アッシリア支配,新バビロニアとの攻防,アケメネス朝による征服
▶︎プトレマイオス朝時代 前332〜30年
 アレクサンドロスによる征服 〜 クレオパトラ7世敗死による崩壊

※上記の区分については,研究者によって考え方が異なります。

3) エジプト王朝史の概説

▶︎初期王朝時代
 前3000年頃,上エジプトを統一した王国が,下エジプトのデルタ地帯を征服し,エジプト全土を支配する統一王朝が生まれました。これを第1王朝として王朝時代が始まります。

▶︎古王国・中王国・新王国時代
 古代エジプトが最も繁栄した3つの時代です。強大な王権による中央集権国家が確立されました。
 古王国時代はギザの大ピラミッドなどの造営が行われた時代,新王国時代はエジプトがシリア・パレスチナへの外征に乗り出し,西アジアとの国際関係が深まった時代です。

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[写真]最古のピラミッド(前27世紀/古王国)
 サッカラ(メンフィス)にある第3王朝第2代の王ジェセルのピラミッド。
 最初の計画では高さ10mの長方形の墳墓でしたが,数度の設計変更で,階段上に積み重ねて高さを増していくうち,最終的に6段の階段ピラミッドになりました。

▶︎第1〜第3中間期
 統一王国時代の狭間には3つの中間期がありました。統一王朝が崩壊して,いくつもの国や地方勢力に分裂したり,異民族に要地を奪われたり,混乱期と言ってよい時期です。

▶︎諸勢力との攻防
 エジプト人の対抗勢力は,西アジアから侵攻したヒクソス(第15王朝)や「海の民」だけではありません。

 西方のリビア人は,第19王朝からエジプトに侵入し,傭兵として定住しました。当初はエジプト人と対立しましたが,軍事力によって勢力を拡大し,ついにはリビア系ファラオが誕生して,王朝を築くほどになりました。
 南方のヌビア人勢力は,古くからエジプト王朝と対峙していましたが,中でもクシュ王国は一時エジプト全土を支配しました(第25王朝)。

▶︎世界帝国による征服と支配
 前1000年紀になると,アッシリアペルシア → アレクサンドロスの順に,世界帝国の領域拡大の中でエジプトは征服されます。

 アッシリアは,第25王朝(クシュ王国)を攻撃して南方に追いやり,次の第26王朝時代にエジプトの宗主国として君臨しました。

 ペルシア(アケメネス朝)は,アッシリア滅亡後,イラン高原で建国され,オリエント全域に覇権を及ぼしてエジプトを征服。ペルシア人によるエジプト支配(第27王朝)を始めました。
 その後,エジプトが反乱を起こして一旦は独立を回復しますが(第28〜30王朝),再びペルシアの侵攻を受けて降伏し,再度その支配に服することになります(第31王朝)。

 アレクサンドロスは,東方遠征の途上,エジプトを征服します。エジプトでは,この征服はペルシア支配からの解放ととらえられ,アレクサンドロスはエジプト王朝を再興した正統なファラオと認められました。

▶︎ギリシア人支配と国家終焉
 アレクサンドロスの死後,その後継者が興したプトレマイオス朝では,ギリシア人ファラオのもと独立国家の体裁が保たれ,のちのローマ帝国の管理下でも,国としては存続しました。

 前30年,クレオパトラ7世は,ローマのアントニウスと結んでエジプト王朝存続を図りますが,オクタウィアヌスに敗れ,プトレマイオス朝は滅亡します。
 これによって,エジプトはローマ帝国の属領となり,国家としての独立を失うことになりました。

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[写真]クレオパトラ7世とその息子プトレマイオス15世(左)
 上エジプトのデンデラにあるハトホル神殿の壁画レリーフ。
 左端がクレオパトラ7世,その右がカエサルとの間に生まれた息子カエサリオンで,「最後のファラオ」プトレマイオス15世です。

4) その後のエジプト 〜文明の終焉〜

 エジプトのローマ支配時代は,前30年〜後395年です。
 この後,ローマ帝国は東西に分裂し,エジプトは,引き続き7世紀前半まで東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配に服します。

 ローマ支配時代のエジプトは,ナイル川流域の肥沃な穀倉地帯によって,帝国の穀物供給地となりました。

 一方で,ローマ皇帝は古代エジプトの宗教や文化を尊重し,伝統的な神々の神殿や神官を保護して,新しい神殿の造営も継続しました。

 エジプト文化にとって最大の打撃は,キリスト教の拡大でした。

 エジプトでは,2〜3世紀からキリスト教徒が進出しました。
 4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になると,エジプトでもキリスト教への改宗が進み,古代エジプトの宗教や文化は迫害され,神殿も破壊されます。

 ヒエログリフは忘れ去られ,エジプト語はギリシア語のアルファベットで表記するコプト語に替わりました。

 7世紀には,アラビア半島で起こったイスラーム勢力がエジプトを征服し,イスラーム化が進みます。
 エジプト人のほとんどはイスラーム教に改宗し,コプト語は死後となってアラビア語に替わりました。

 「古代エジプト文明」は,その残り香すら消え,忘れ去られることになったのです。

《参考文献》
▶︎青柳正規著『人類文明の黎明と暮れ方』(興亡の世界史00) 講談社 2009
▶︎笈川博一著『古代エジプト』(講談社学術文庫) 講談社 2014
▶︎大貫良夫他著『人類の起源と古代オリエント』(世界の歴史1) 中央公論社 1998
▶︎河合望著『古代エジプト全史』 雄山閣 2021
▶︎小林登志子著『古代メソポタミア全史』(中公新書) 中央公論社 2020

★次回「古代オリエント7  ファラオの王国(1)」へつづく