教師は裏切られてなんぼ
新人時代に先輩から言われた言葉が思い出されます。
教師は裏切られてなんぼ。
これをもっとまろやかに言い換えれば、「教師は頑張っても上手くいかないときがある」とか、「最後は上手くいくと信じる」ということになろうかと思います。
例えば、どんなに教師と子ども、子どもと子どもの関係を作れて、さぁここから主体的・対話的で深い学びの場だ!と授業したつもりでも、上手くいかないことはざらにあります。
もっと言えば、サボろうとする子が出てくる場合があります。
自分たちでやる、というポーズを見せておいて、ただ手を抜きたいだけなんてこともあるでしょう。大人に付き合ってあげているだけという場合もあるはずです。
子どもは賢いですよね。
こういった「裏切り」がないようにするシステムが従来の管理教育だったのではないのでしょうか。
子供中心主義や共同的な学びの中では、上記したようなエラー、すなわち「上手くいかないこと」が出てきます。
でも、現場出身の私には、上手くいかないって言葉よりも、裏切られるという言葉の方がよりリアルな響きを持って感じられます。
もちろんそれを「最後は上手くいくと信じる」という言い方にするのも、ある意味健康的で良いとは思います。
実際、そういう場合も少なからずありました。現場の方は、卒業式を思い浮かべればすぐ理解されるはずです。
ただし、この「最後」は「学校という時間的枠組みの中」に内包されていることに留意しなければなりません。
もしくは、子どもが社会に出てからのことに少しでも目を向けるならば、「最後は上手くいくと信じる」ことは極めて曖昧で君子的な概念であると言わざるを得ないでしょう。
教師は裏切られてなんぼ。
これは、新しい学習観、教育観を実践に落とし込む上で一つの鍵概念になるように感じます。
決して性悪説などではなく、子どもを一人ひとりの人間としてみるリアルな概念に思えるのです。