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文化とは「言葉の化身」とするならば

組織開発を進める上で「組織文化」を認識することは欠かせない。なぜなら組織文化こそが組織開発の対象だから。だからそこには定義がなければならない。曖昧さを残すわけには行かない。「御社の文化を教えて下さい」「弊社にはXXのような文化が根付いています」というのは就職活動における定番のやり取りだが、実際そこで語られている「組織文化」って何?というのが今回の話題。


「異質な物」は、「異質な者」に!?

少し昔話にお付き合いいただきたい。私は物心ついたときには天邪鬼だったので、もちろん「学校生活」もいつもアウトサイダーだった。ただ、当時の(今もかもしれないけど)「学校文化」は色々こじれていて、非常に同調圧力の強い金太郎飴な世界であったから、「異質なことを排除する」という論理が人にも役割にも適用される結果、異質な「私」が異質な「XX委員長」的なことを「やらされる」ことは多かった。これは誇れるようなものではなく、性質的には「いじめ」に近いものであり、ただただ「押し付けられる」ものだった(これが災いして(?)私は「リーダーシップ」「権威」が嫌いになったけれどそれはまた別の話)。

このパターンは高校まで続いた。ただ、高校2年で「文化祭」の実行委員長が募集されたときは少し違った。私はここで初めて手を上げた。ただしその理由はやはり権威への不審だ。文化祭は生徒の主体的なイベントであるべきなのに、学校がプログラムを決めていたのが我慢できず、そういうのを排除することを公約に掲げ、初めて自分の意思で「リーダーシップ」を取ろうとした。

「文化」と睨み合う

そんなわけで文化祭の委員長になったのはいいのだが、どうすればいいかわからない。そこで私は「文化」を理解しようとした。でも高校生のすることは単純で、毎日「文化」という言葉を頭の中でこねくり回すだけ。毎日「文化とはなにか?」と書いてはそのさきが続かない。唯一私ができた具体的なことは、昨年の引き継ぎノートを丹念に読むことだった。引き継ぎノートは前の委員長の日記のようで、面白かった。いろいろな予定外の事件が起き、それに対してどんな対応をしたのか。なぜそうしたのかが書かれていて、私は前委員長の活動を追体験するようにイメージを掴むことができた。何をしなければならないのかが具体的に理解できた。

そういうことをしているうちに気がついた。この「文字による引き継ぎ」というのは、もしかして「文化」の特徴を示している例なのではないか?文字があることで人は、同時空間を共有していなくても相手の経験を受け継ぐことができる。そして自分もそこで練度を高めた経験を更に後進に受け継いでいくことができる。この繰り返しそのものが文化なのではないか。

「言葉のバケモノ」

そこから発想した当時の自分なりの考えは「文化とは、言葉(文字)の化け物である」ということだった。言葉そのものではなく、言葉を使って伝わっていくもの、人と人の間で共有され、受け継がれ、拡散していくアイディア。一人ひとりから独立し、あたかも独自の人格を備えて振る舞うかのような存在。(今は、言葉にならない暗黙知こそむしろ文化の要素として大きいとおもうけれど、形式知としては間違っていないと今も思う)

私はこの考えに納得した。そしてその年の文化祭のテーマを「伝える」というベタな名前にした。伝達、伝承、伝播。この「文化の首根っこ」を押さえた骨太なテーマなら、文化祭はどこまでも「文化を称える祭」であることができるだろう。

このアイディアは結局の所その後の自分の歩みを決定づけることになった。何をしていてもふと振り返ると結局私はこの「文化」の周りをウロウロしていることに気付かされる。今こうしてこんなことを書いているのも結局その続きだ。

「縦糸」と「横糸」

ただ、仕事として「組織文化」に関わるようになると、少しそのフォーカスは変わってきた。かつては「伝承」(縦糸)をより強く考えていたけれど、今は「伝播」「伝達」(横糸)のほうをより気にするようになった。歴史を積み重ねていく中で自然に形成されるもの、というやや受け身で客観的なスタンスではなくて、今ここに存在しており、そしてそれを変化させていくべき対象として、主体として関与していくスタンスになったからだと思う。

ということで。「伝播」「伝達」により強く焦点を当てようとすると、「言葉のバケモノ」よりも具体的で実際的な定義が可能になる。「明文化されている/いないに関わらず、その組織の構成員が実際に『当然のこと』として振る舞っている言動とその前提となる価値観」というのがそれだ。

例えば、「弊社はクライアントファーストが文化です」「社員のやりがいを第一に考える会社です」と言う会社はたくさんある。しかし一方で、実際には「このままでは今期の業績目標が未達だ。なんとしても今月末までにこの契約をねじ込んでこい」というコミュニケーションが社内で行われていたら?この会社の文化は「クライアントファースト」でも「社員ファースト」でもなく「業績ファースト」もしくは「経営者ファースト」の文化を持っていると言えるだろう。または、「なんでも率直に話し合う文化です」という一方で、赤提灯や喫煙所での陰口が多いなら、この会社の文化の実態は「面従腹背」だろう。

ちなみに、「弊社はこのような文化です」と定義されている文化があったとしても実態がそうではないことはかなりよく見受けられる。どちらかというと明文化されたものは実態を示したものではなくて「こうだったらいいのに」という願望、ないし「こう言っておけば聞こえがいい」というごまかしでしかないことが多い。例えば「XXX民主主義共和国」と名乗る国の体制が民主主義的な運営をされているかというと悩ましいこともあろうだろう。または、「大XX帝国」という名前は「今は小さいので、大きくなりたい」という、コンプレックスを裏返した名前だったかもしれない。

明文化されていない、文化の実態を捉えることが、組織文化理解であり、組織開発の第一歩といえる。それはどうやって可能なのか?実はすでにほとんどお話済だ。文化の「伝達」の側面を考えると、文化の実態はそこで飛び交っているコミュニケーションから理解可能になる。つまり「コミュニケーションの輪」の分析こそが組織文化の理解に繋がっていく。


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