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ペタゴジーは、あるのか?

「学び」に携わっていると一度は耳にするのが「アンドラゴジーとペタゴジー」のはなしだ。この理論、社会人学習の立場から聞くと「ふむふむなるほどね」と思わされる気がする。ただ、未成年学習の視点からこれを眺めると、多分違う見え方をするのではないか?というのが、今日扱いたいお話。

アンドラとペタの一般論

特に社会人の学びの視点からは以下のようなことが言われている。

  • ペタゴジーとはこどもの学び方。子供は記憶力が高く、伝えた情報を文脈なしでも吸収していくことができる。よって学校教育では教科書の内容を吸収していくスタイルが取られている。例えば単語帳を元に英単語を吸収していくようなことが可能

  • アンドラゴロジーとは大人の学び方。子供と違って大人は記憶力が弱く、単語帳スタイルでの学びは容易ではない。その代わり、人生経験をもとにした「文脈による学び」の力がある

  • 社会人の学びを設計するにおいては、学校教育のようなスタイルで設計してしまっては失敗する。大人の特性を踏まえた、大人のための学び方をデザインしなければならない

  • 大人の特性を踏まえた学び方とは、例えばストーリー仕立てで文脈を強めたスタイルであったり、比喩を多用して連想的に理解させたり、文字情報だけでなく画像や映像を活用したり、または受け身ではなくアクティブな学び方にするなど、の工夫をすることだ

なんとなく、正しい気がする。というかいわゆる社会人学習の世界ではこの認識がベースとなって理論と応用が発展してきたものと思う。私自身、大いにこの考え方を活用してきた。特に、社会人学習に新しく携わろうとしている方に、これから携わっていただく世界はこんな世界ですよ、昔の学校教育のイメージのままではうまくいきませんよ、ということを伝えるのに重宝している。「社会人教育の視点」から言えば、この理論は役に立つ。

視点を変えて眺めると景色は違って見える

より正直に言うと、この理論を聞きかじって以来、私はあちこちでこれを吹聴し、得意げに語ってきた。それを否定したいわけではないし、今後もこの話をする機会はあると思う。でも、その後、「こどもの学び」に関わる機会を経て、少し違う見方をするようになった。

どう変わったか、一言で言うと、「こどもにも、アンドラゴロジーの発想で設計された学びが有効だ」ということだ。私がそう考えるようになったのは以下のような経験による。

  • こどもは絵本から多くのことを学ぶ。今まで経験したことがない異国の話、異時代の話、別の存在の話(主人公が動物であったりモノであったりプリンセスであったりすることはよくある)であっても、美しい絵の助けを得ながら子供はその世界観を受け入れ、そのストーリーを理解し、そこから多くの事柄を学ぶ。くまははちみつが好きなこと。ねこはさかなが好きなこと。さかなにもいろいろな種類があること。こうもりは実は哺乳類であること。ねずみは家の壁の裏側などに棲み着いていること。プリンセスはお城に住んでいること。プリンセスの住むお城と殿様の住むお城は違うこと。これは、こどもであっても(いや、むしろだからこそ)ストーリーを通して学ぶことが有効であることを示している。

  • こどもにも既に(短いだろうけれど)人生経験はある。そして絵本や物語を通して、更に多くの人生を疑似体験している。だから、子供に何かを説明する時、既に知っている知識と結びつけるというアンドラゴロジーの手法はとてもよく機能する。公園に連れて行ったら、「ここには昔お城があったんだよ。だからほら、ここに石垣のあとが残っているよ。おとのさまの本に出てきたお城に似ているでしょう?」と説明するとこどもはよく理解してくれる。はちみつを見つけたら「プーさんにあげたいね」と自分から言ってくれることもある。

  • こどもはよく質問する。それは単語をしりたいのではなくて、世界の成り立ちの因果関係を理解したいからだ。この木になっている実は何?なぜこの葉っぱは赤いの?この手の質問に、一言で答えることもできる。それはりんご。この葉っぱは紅葉したから。こどもはその言葉を記憶できる。でも、例えば、「りんごは秋になるね。春と夏に葉っぱをいっぱいつけて太陽から栄養をいっぱいもらって、その栄養をここに溜め込むんだよ。そして中に種がある。動物がこのりんごを食べてくれるかもしれない。種は動物の体を通り抜けて、栄養たっぷりの糞といっしょにどこか別の土の上にのこされる。そうすると、りんごは別の場所でまた木を生やすことができる」と話したほうが、こどもは興味を持って聞いてくれるし、そしてそれを忘れない。こどもにとっても、記憶の定着の鍵は量ではなく文脈なのだ。

考えてみれば当たり前のことであるように思う。自分自身の経験を振り返っても身に覚えがある。歴史の授業なんて私には退屈そのもので、年号を語呂合わせで覚えることはしたけれど、そこになんの意味も見いだせなかった。しかし、歴史小説や歴史マンガは圧倒的に楽しかった。未だに歴史マンガの記憶のほうが教科書から学んだ記憶より遥かに定着している自覚がある。

地理だってそうだ。日本で一番高い山は富士山で、3776m。ミナナロ、とおぼえなさい。教科書ではそう教わった。でもそれはただそれだけの話だ。私にはそんな知識よりも、怖い思いをしながら必死で茶臼岳を登って、頂上でおにぎりを食べた記憶のほうが意味を持った。日本で一番大きい湖は琵琶湖だ。琵琶の形をしている。だけどそれだけの話だ。私にとってはそれよりも、家の目の前にあった霞ヶ浦の圧倒的な水量のほうに影響を受けた。そして、自転車で霞ヶ浦一周にチャレンジし、サドルにまたがるのが痛くてへたばりそうになった記憶や、日常と地続きの場所なのに一歩足を延ばしたらこんなにみたことがない世界が広がっていることへの驚きのほうが血肉になっている。

理科にだって心当たりがある。殆どの実験は面白くなかった。なぜなら、既にどうなるかは教科書で知っていたからだ。でもある時、知らないことを実験した。「色々なものを燃やしてみよう」という実験だ。木が燃えるのは当たり前だった。紙だってそうだ。鉄棒は燃えなかった。しかし驚いたのは、鉄粉が燃えたことだ。え?鉄が燃える?どういうことだ?私は初めてその理由を知りたくなった。そしてそれを説明できる科学への敬意を抱いた。

大人とこどもの学び方は違う?本当?

私にはこれは大いに疑う余地があるように感じられる。大人とこどもで脳の柔軟性は変わるだろうけれど、基本的な機能の仕方が変わるわけじゃない。ただ、こどものほうが柔軟で吸収力に富んでいるから、無理やり詰め込んでもなんとかなってしまう、というだけのことだ。そして、効果ではなく効率を優先して、多人数をまとめて同じことを詰め込むことをしてきただけだ。それは「だからこそこどもには詰め込む方法が良い」ということを意味するものではない。

大人だってこどもだって、生きた形で学びたいのだ。因果や生活、意味、文脈と切り離された学びではなく、いまこどもが生きているその世界から出発する学びであれば、こどもの学びは今より遥かに豊かで活き活きしたものになるはずではないか。だから、アンドラゴジーとペタゴジーの議論は、もしかしたら大人の視点に偏った乱暴な議論なのではないか。今はそのように考えている。


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