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自作エッセイ

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私、ナルが書いたエッセイと呼べるかぎりぎりの文章を集めました。しょうもないことしか書いてません。
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#創作大賞2024

32歳、盛岡に捧ぐ

幼少期の僕は、ひどい泣き虫だった。 今思えば、たくさんの出来事が「怖かった」のだと思う。 友達や家族のけんか。 先生に怒られること。 幽霊の出そうな近所の小屋。 ご飯をこぼすこと。 地震と雷と大きな音。 何かしら失敗をすること。 もう会えなくなること。 今も、あまり変わっていない。僕は、さまざまなことが怖いまま、大人になってしまった。 ちゃんと書かずに濁しておこうかと思ったが、いろんな方のnoteを見て、書こうと思った。ご自身やご家族の、身体や心のことについて、向き合ってい

18歳、立ち話

18歳で僕は地元を離れ、盛岡での一人暮らしを始めた。 そのときの出来事は、今までもぽつぽつと書いてきたが、昨日ふと思い出した18歳の記憶について書こうと思う。 18歳で僕はさまざまな「初めて」を経験した。 初めての彼女、初めてのキス、そして、忘れられないのが 「初めて宗教に勧誘されたこと」 である。今思い出しても、ちょっとむかむかする。 ことわっておきたいのは、宗教を否定するつもりはないということ。 生活に密接していたり、心の支えになっていたり。そうしたことを否定するつもり

○○活

昨今、よく耳にする「○○活」という言葉。 就活、婚活といった既に生活に馴染んでいるものから、推し活、腸活などさまざまな「○○活」が存在している、らしい。 2000年頃からこうした「○○活」という言葉は急速に増え始めたとされる。その年代ならもう僕はこの世にいたわけだが、あまり記憶にない。就活に関してはよく耳にしたな、といった程度。 さて、現在使われている「○○活」の言葉の中から、僕がやや理解に苦しんだものをピックアップしたい。なお、この記事の中では「○○活」という言葉を勝手に

?歳、言い訳の記憶

その日は、幼稚園のみんなで近所までお出かけだった。 やんちゃな子、のんびりした子、おませな子。 僕はといえばひどい泣き虫で、いじめられては泣いてばかりいた。 幼稚園のそばのだだっ広い空き地に、大人4、5人くらいの高さのある崖があった。 「今日はみんなで崖のぼりをしよう!」 先生がそう言い、みんな一様に崖を登りだした。 当時から運動が得意ではなかった僕は、ぜえぜえはあはあ言いながらようやく登った。 「はーい。よく登ったねー!」 先に上に行っていた先生が手を伸ばす。 疲れ切ってい

熱中症と黒い三連星、そしてミイラ

夏が来ようとしている。 帰って欲しい、という言葉を飲み込んで、夏にまつわる話を。 そう、熱中症について。 熱中症、皆さんはなったことがあるだろうか? 僕はあります、それはそれは何度も。 一度なると癖になってしまいなりやすくなる、とは聞いたことがあったが、まさかここまで何度も経験するとは。 どうせなら、幸せな経験を何度もしたい。そう思ったけど言わない。書いたけど。 はじめてなったと記憶しているのは大学3年の頃。たしか経済学か何かの講義に向かっていた。暑い、というよりじめじめ

20歳、戦う

一人旅がしたい。 そう思いながらも実行に移せないまま、かなりの年月が経過している。 実行しない理由としては、僕の体調が主なものだ。大量の薬がかさばる。あと、行くところに迷っているうちにベストシーズンが過ぎてしまう、というのもある。 かねてより、鉄道旅というものに強い憧れがあった。西村京太郎サスペンスのような事態に巻き込まれたくはないが、ドラマティックな展開があるような気がする、のは僕だけだろうか。 盛岡時代、思い立って荷物まで用意し、盛岡駅に行ったことがある。 20歳も終わり

21歳、やらかす

酔って何かしらの失敗をする。 誰しも少しの失敗ならあるはずだ。僕はそう信じてこの文章を綴る。 これからを担う10代の尊厳のために。 21歳、僕は大学からすっかり足が遠のいていた。 それまでに起きた、自分ではどうしようもなかったことや、自分がどうにかできたこと、全てに疲れていた。息をするのも面倒と感じていた。 そんな僕を心配して、友人は幾度も僕を飲みに連れ出した。大学に行くよりは足取りは軽かった。18歳の頃の軽かった足取りと気分は、どこかに去ってしまっていた。 盛岡市内のアパ

思い出は痛みとともに

人生において「痛み」の記憶は鮮明なものだ。 失恋の痛み、大切なものとの別れといった精神的な痛みから、骨折、病気といった肉体的なものまで、痛みの種類は多様である。 未だに血が流れたままの失恋の記憶の話もいいが、今回は「少年期に最も痛かった」思い出の話にしようと思う。失恋の話は、書きながら僕が泣くことになる。 グロテスクな痛々しい話や、流血の話ではないので、気楽に読んでいただきたい。 ただ、虫が苦手な方、ごめんなさい。 僕は小学生の頃、自他共に認めるほどの「昆虫博士」であった。

「こんなもん」を認めるために

「お前の人生、こんなもんだ」 高校3年のとき、漢字検定に落ちた。2級だった。1点、足りなかった。 高校2年のときには、3点足りなかった。 1年で2点しか埋まらなかった。 その事実に打ちひしがれていた僕に、当時の担任は、上に記した言葉をかけた。 それからの人生を振り返ると、この言葉がずっと僕にまとわりついている気がする。まるで呪いのように。 言葉で呪う、なんて大人気漫画の登場人物のようだけれど、言葉の力は意外とすごい。それを意識していないとしても。 それからの僕の人生は、迷い、

17歳、直撃

空からの飛来物、というと何を思い浮かべるだろうか。 UFO? 鳥のふん? 僕は、花火の残骸である。 17歳、高校3年の夏であった。友人たちと地元の花火大会に行くことになった。「18歳」の記事で書いたとおり、大学は盛岡を選び、しばらく地元を離れたため、この花火大会に行ったのはこのときが最後である。 その当時片思いをしていた女性を誘って、見事に振られ、いわゆる「残念会」であった。だが、もともと花火が好きだったこともあり、気分としては明るい。楽しむことに全力でいようと思っていた。

18歳、迷い込む

昨今、ニューヨークタイムズや某不動産会社の一件があり、話題になっている盛岡。 その件について言いたいことはたくさんあるのだが、それは置いておいて。 僕は18歳から7年間、盛岡で暮らしていた。大学に入学し、はじめての一人暮らしを経験し、さまざまな出来事があって大学に行かなくなり中退するまでの7年間だ。楽しさよりも、悲しさと無力感に充ちたその期間があっても、盛岡という地をいまだに愛しているのも不思議なものだ。また盛岡で暮らしたい。 それはさておき、その7年間に起きたことの中で、未