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しおりの小説の書き方講座③「読む」

こんにちは、しおりです!

前回は、「文字を書く」とはどういうことか、についてアプローチしてみました。
そこでは、私たちは「誰かの言葉を借りてきて、文字を書いている」ということを確認しました。「自分だけの言葉」なんてものはない。
だから、小説を書きたいと思ったら、本は読まなければならない――というわけです。

しかし、どんな本を読めばいいんだって話になってくるんじゃないでしょうか。
本と一口に言ったって、色々あるじゃないか。小説、専門書、自己啓発本――
そして、どうやって読めばいいんだ。ただ漫然と読んだんじゃダメなんじゃないの? これももっともな疑問だと思います。

結論から言いますと、ぶっちゃけどんな本でもいいんですね。魂を揺さぶられるものならなんでも。
どう読むか――の方が重要です。今回は、どう読むかを説明するために、「読む」とは何か、というところにアプローチできればと思います。「読む」に対する理解を深めれば、結局のところ、前回否定した受動的な――バラエティ番組やYoutube動画でも、小説に活かすことができるんだということが理解できるようになります。頑張っていきましょう。

「誰かの言葉を借りてきて、文字を書いている」以上、どんな言葉を借りてくるか、ということが重要になってくるのは明らかですね。
変な本を読んでしまって、影響されて、それが小説に現れてしまう――これほど怖いことはありません。
実際、癖が強く、初心者が影響されてはまずい本――というものはあります。今回は詳しく立ち入ることはできませんが、例えばラヴクラフト全集などはまずいでしょう。形容詞が独特なうえに、世界観が非常に特殊です。ラヴクラフトほど、壮大な世界観を一人で形成できる胆力と探求心があれば別ですが、まず書いてみようといった段階ではやめた方が得策です。

だから、まず考えるべきは「どんな小説を書きたいか」かもしれません。小説にも色々な種類があります。純文学、ミステリー、SF、ライトノベル(しかもそれぞれにも多様なジャンルがある)――といった感じで。
どんな小説を書きたいかが決まっている人は、そのジャンルを中心に読書を進めていけばいいと思います。――ただ、どんな小説を書きたいかも決まっていない人、とりあえず小説を書いてみたいという人――この人は多分純文学に向いてますが――は、多分ここの時点で路頭に迷う羽目になるでしょう。

そういう人は、とにかく色んな本に触れてみることです。
ここで、「小説」ではなく「本」といったこともミソです。残念ながら現在、本を読むというと大体小説を読むことを意味してしまうことがよくあります。ですが、本はむしろ、小説以外の本の方が多い。具体的に言えば、自己啓発本はもちろん、専門書――専門書にも色々な種類のものがあります。学術書もあれば、一般向けに書かれたもの、児童向けに書かれた本などもあります。また、小説関連でも、小説の読解の方法について書かれた本などもあります。例えば、『不思議の国のアリス』は、たくさんの解説本が出版されています。
このように、本といっても本当に様々なんですね。どんな小説を書きたいかよく決まっていない人は、まずは大きな本屋をぐるりと一回りしてみるのもいいかもしれません。

どんな小説が書きたいか分からない人は、まず事実を並べてみるだけでも面白いと思います。こんなのはどうでしょうか。

《2020年7月8日。何もすることがなかったので、道端を歩いていた。花が咲いていた。顔を近づけてみた。よく見れば、水色の花弁の中に、黄色の斑点模様があった。花粉も飛び散っている。めしべが気持ち悪い。私は花を引っこ抜いた。根っこには土が付いていた》

自分で言うのも何なんですが、これだけでおもしろいですね。
なにこれ。ひどいな。
で、これだけでは、やはり小説としての完成度が低いので、形容詞をどんどん大げさにしていきます。

例えば、「2020年7月8日」という表記は、小説としてはあまりに具体的すぎます。というのも、小説において、読者は、その文面から情景を想像することになりますが、そのとき、著者は必ずしも読者のそばにいるとは限らないんですね。だから、自分でその情景を思い浮かべなければならないのです。
そのとき、「2020年7月8日」と言われると、情報がピンポイント過ぎて、「いつだっけ……?」となって、想像を阻害されてしまいます。
ここでは、「ある夏の日」くらいが、ちょうどいいでしょう。もっとイメージを鮮烈にしたい場合は、「夏みかん」とかいう季語を使ってみて、「向こうの家の庭に、夏みかんがなっていた」なんて付け加えてもいいかもしれない。「季語」はいいですよね。日本人が季節を共有しやすいイメージを端的に示してくれます。どんどん拝借していきましょう。

「何にもすることがなかったので」ですが、これももう少し状況を明確にするといいと思います。これは自分でも想像してもいいですが、折角なので、暇を書いた小説があったかなあ、などと考えを巡らしてみるといいでしょう。
とすると、国語の教科書にも掲載されることもある、志賀直哉の『城の崎にて』はいかがでしょうか。あの小説も、主人公がすることもなくて、散歩に行くシーンがありましたが、あの主人公は山手線に跳ね飛ばされて城崎温泉に養生に行っていたというわけです。不謹慎ですが、使えそうです。その後ろは、文字数の関係上省略します。

《ある夏の日。向こうの家の庭に、夏みかんがなっていた。東武東上線にはねられたものの、すんでのところで一命をとりとめた私は、家の中で養生していた。漸く少し動けるようになった私は、散歩という娯楽を覚え、道端を歩くことがよくあった。そして今日も、街の隙間に流れる、小さな川沿いを歩いていたというわけである(……)》

……調子に乗りすぎた。ですが、これで若干小説っぽくなることが分かったと思います。
もしこれが、『城の崎にて』ではなくて、自分の好きな小説から取ることができれば、自分の書きたかった小説がパパっと書けるわけですね。良く言えば、換骨奪胎。悪く言えばパクリです。

それはそれとして、こういう感じで、まずは小説を書いてみる。すると、自ずと、自分の好きな文体が生まれてきます。この作家のように書いてみるのが一番楽しい、みたいな。
私の好きな作家は太宰治ですが、太宰治の女性視点一人称は自由な跳躍があってパクっていてとっても楽しいんですよね。
ですが、いつまでもパクっているわけにはいきません。オリジナリティ――は非常に重要です。ですが、まずまっさきにオリジナリティを求めることははっきり言って無謀です。色んな本をミックスしてミックスして、そして一つの形に仕上げていく。
それを繰り返すと、いつしか、色んな文法を縦横無尽に使えるようになって、自由な小説が生まれていくというわけです。

さて、長くなってしまいましたが、こういう意識で本に触れていくと、本がまた違った形で表れていくことになります。例えば、「ここもしかして、こういう工夫をしている?」とか、「この発想はおもしろいな」とか、「もしかして、この作家はこういう癖がある?」とか――。
簡潔に言えば、文字と主体的にかかわって、文字そのものの性質を追えるようになるというわけです。文字を流し読みするだけでは、結局本の良さを活かしきることができなかったのが、この「主体的なかかわり」方を覚えることで、「本を読む」ことの良さを実感できる。
主体的にかかわる――と言うのが重要です。前回、本は「能動的」だと主張しましたが、そもそも本に書かれた文字の特性は、インクの白黒の染みの上から自らで意味を発掘していかなければならないところにあります。
さきのような、「受動」から「能動」への、関わり方の方向転換は、その文字の特性を真っ向から利用するということになるんですね。
つまり、「本を読む」ことの長所は、この「主体的なかかわり」がしやすいところにあるのではないか――。これが私の主張になります。
このように本に主体的にかかわっていくことで、私は「小説を書けるようになるための読書」が達成されるんじゃないか、と思うわけですね。

こういう意識を持てば、前回否定してしまった――バラエティ番組や、Youtube動画、一部の映画も、たちまち小説を書くための読解に変化しうるというわけです。
というのも「本を読む」ことの長所が「主体的なかかわりのしやすさ」にあるのならば、結局それを、別の媒体でももっと意識すればいいだけだからです。「あ、この番組はここを工夫しているんだ」「このYoutuber、演出上手いな」みたいな。
すると、あらゆる作品を、媒体の垣根を越えて理解することができる。「読む」そのものの特異性が目の前にありありと現れてくる――というわけです。

……今回も持時数がそろそろ悲鳴を上げてきました。
次はですね、「読む/書く」の二項対立について考えていきます。
先に言うと、この二項対立を壊すところに、実は物書きの使命が存在するのではないか――と言うのが私の意見です。
「パクリ」から離れるには、私たちは何をすればいいのか――って話にもつながります。

うひゅひゅ。どんどん書いていきますよ!

ではっ!

落葉しおり

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