実力なんていらない
何かで失敗すると、つい「自分の実力が不足していた」と思ってしまいがちです。本当でしょうか。
「不足」という言葉を使うということは、実力は数や量で表すことができるものとしてイメージされているということです。
速度計や高度計のようなメーターみたいなものが、体のどこかにくっついているイメージかもしれません。
例えばレートムの実力メーターが40の目盛りを指しているとしましょう。
恐らく、実力40に満たない課題であれば、レートムはミスなくクリアできるという意味ではないかと思います。少なくとも、それ以外の意味はすぐには思いつきません。
でも実際には、レートムは何でもないところで──目盛りで言えば30、何なら5とかそのあたりで──ミスをします。また、スケジュールの都合がつかずにやっつけの完成度で提出してしまったり、体調不良から朦朧とした意識で仕事を片付けたりして、散々な評価を受けることもあるでしょう。
そんなとき、まだ実力の存在を信じていたい人は、「本来の実力であればできたはずなのに、今回はたまたま上手くいかなかったんだ」「メーターが一時的に下がったんだ」と言いたくなるかもしれません。
そうなると、メーターの針の位置で成功や失敗が決まっているというよりは、成功や失敗に応じてメーターの針の方がびよんびよんと移動しているように思えてきます。原因と結果が逆転しています。
メーターであるからには何かの動かぬ基準であってほしいものですが、「実力」はその役割を果たしてはくれなさそうです。
むしろ成功や失敗を左右しているのは、周囲の環境や前日の睡眠時間、あるいは「運」としか言えない何かなんじゃないでしょうか。
そうだとしたら、自分の成功・失敗の要因について説明するとき、実力について言及する必要はないということになります。
「いや、仕事を数こなしていく中で経験が蓄積されていって、実力が高まっていくのだ」という反論も考えられそうです。
でもよく振り返ってみると、成功や失敗はむしろ「課題に応じて適切な方法を選べたか」という、その時々の選択が功を奏した結果であるように思えます。
成功を収められたのは、自分の「実力」のおかげではなくて、選び取った方法の成功率が高かったんだ、ということです。
結局のところ、成功や失敗はサイコロを振るようなものなのだと思います。
サイコロは振れば振るほど、それぞれの目が出る割合が1/6に近づいていきます。
でも、1度だけ振ってそのとき2が出たら、2が出た割合は100%、ということになってしまいます。
レートムにできそうなことといえば、サイコロをデタラメでも良いからとにかく振り続けて──つまりがむしゃらに試行回数を増やし続けて──、成功と失敗の出る割合を均していくことぐらい、という気がします。
もちろん、「すべては運次第」と主張したいわけではありません。運が良い人だって失敗することはありますからね。
レートムが言いたいのはそういうことではなくて、成功や失敗は忙しさや体調や、天気や気分や着ていた服や朝ごはんのメニューや、それからやはり運など、数えきれない色々な要素で決まっていそうだ、ということです。
それなのに、「実力」なんてありもしないメーターを用意して、その針の位置にだけ全ての原因を被せてしまうのは、自分でわざわざ悩みを作り出しているようなものです。
実力のせいにするよりも、失敗した原因を方法や環境のなかに探り当てた方が、よっぽど建設的です。
また逆に、「成功したのは努力の甲斐あって自分の実力が上がったからだ」と考えても、いつか足元を掬われそうな気がします。
ここでもやはり、成功した原因は方法や環境のなかにこそ見定めるべきです。
というわけでレートムは、成長も挫折もこれといって信じることなくサイコロを振り続けています。
次はどの目が出るか、楽しみで仕方ありません。
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