20201122
生来の遅筆に加え、妙に忙しくて腰が落ち着かない。食い道楽においては怖いくらいにアタリが続いていて、書きたい店がわんさわんさと出てきた。時同じくして、ある出来事が心気に波紋を広げ、何かをしていてもふと呆然として、考えたり案じていたりする。身の周りの事件と、胸の裡で起きている事象とがこうまで見事に大きく乖離しているシチュエーションというのは、ちょっと思い出せない。
寄る辺ない心持で、どこかを気にしながら書き始めている。もう半月~ひと月くらい前の、もっと前かもしれないが、いくつか残っているものの滞貨一掃バーゲンセールがしばらく続くか。
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久しぶりに顔を合わせるWさんと、ついでに飯を食おうとなった。どこでもいいよとのたまう。食(しょく)への関心の低い御仁なのであまり仰々しいのは嫌がられるが、さりとて粗略な扱いはしたくない。結局差配に手抜きが出来ず、力の入ったチョイスとなる。
下京区<BOCCA del VINO>へ。
不味いものよりは美味しいものを、とは万人に通ずる条理であっても、希求の熱意や度合いは人それぞれであろう。不味い食い物は避けても、美味・美食の獲得への執着の深さはまた別物。それなりに長く付き合いのある人だが、食に関する話題で盛り上がった記憶は少ない。だからといって、間柄や見る目を変える気もない。過去にも何度か食事をしていて、お互いに嫌な思いはしていないから、誘って迷惑というわけでもなかろう。
目指す伊太利料理店は夜の営業がメインで、昼に開けるのは週のうち数日のみ。巡り合った好機を逃す手はない。席に案内され、メニューに目を通す間にも、相手にここがいかにいい店なのかを説くが今一つピンとこない様子。
こういう温度差を無理に埋めようと押し付けをしてはいけない。私の流儀ではない。
注文を決めてから店内を見渡す。夜のメニューが掲げてあり、書き連ねた品々はいかにもそそるものばかり。
個人的には魚介類でいいのを揃えているように思える。Wさんとの会話をおろそかにはできないが、板書のメニューと、そして間もなくやってくる昼飯で頭がいっぱいだ。気もそぞろで、生返事であったことを告白しよう。
私のもとにラヴィオリが届く。前菜PrimoPiattoになろうか。 Wさんは前菜の盛り合わせだ。
卓に届くや、バターの香りの、優婉でまろやかなヴェールが座を覆う。バターは正義という狂信者には嬉しいアロマだ。バターは熱の加え方で幾通りもの香りを醸し出す。フライパンで焦がしたものから、生を舌の上で溶かすに至るまで、変幻自在の香気はすべて等しく愛おしい。生クリームと合わせてこさえた白いソースは豊満を清澄をともに孕み、さらりと流れるも確かなコクを舌に残す。ほどよい塩気はバターと、粉にしてふりかけたパルミジャーノに由来する。乳脂の風味を邪魔しない、緻密な計算が光る。
出来の良いソースをたっぷりと絡めてからラヴィオリを口に運ぶ。
アルデンテの不文律は生きており、形は似ていても雲吞yúntūnのようにつるりとはいかず、よく練られたコシを楽しむ。詰めてあるのは白茄子とリコッタチーズで、ともにクセや匂いは控えめな食材。それでもチーズとしての楚々としたコクは十分であり、茄子のとろりとした食感が舌先で疑似的な濃味を感じさせる。バター・クリーム・チーズと字面はいかにも重いが、風味から口当たり、さらにのど越しに至るまで脂っぽさという淀みのない流麗なる逸品であった。
主菜SecondoPiattoとして自家製ソーセージのグリル・ポルチーニ茸のオムレツ添え。
私の主菜をみて、Wさんはハトが豆鉄砲を食らったような顔をしていた。なるほど、彼女の乳呑み仔羊と野菜の煮込みと比べれば、シンプルにみえるだろう。しかし目を凝らせば、とても贅沢な“シンプル”なのだ。
品書きにおいて「ソーセージ」と訳しているが、厳密には異なる。腸詰を指すSausage――独逸ならWurst、仏蘭西でSaucisse――は概ね、燻製にするなど何らかの手法で加熱して仕上げている。一方、目の前の伊太利式腸詰、すなわちサルシッチャSalsicciaは、詰めて生のままで完成とする。
そのまま食(や)るもよし、別の料理に使うもよし。ここでは単純明快なる正攻法の、焼いただけのサルシッチャである。
薄いが強靭な豚腸に少しずつ小刻みにナイフを入れてゆく。
漏れ出る肉汁を滴らせながらかぶりつく。程よく塩も利いていて、中挽きくらいの豚の赤身がハーブとスパイスとともに練ってある。挽いてあるがなお弾力に富み、肉そのものの瑞々しいエキスがあふれ出す。プリッとした軽快な歯触りの、しかし惰弱な既製品ではおよそ味わえない個性だ。個性といえば、さらには詰めただけで完成として、生の状態で置いたがゆえに進んだ組成の変質が独特の風合いを呼ぶ。腸のわずかなクセ、つまり既製品に慣れた感覚からすると臭みと捉えられがちな風味もあるのだ。この風味なくして何のサルシッチャか、と思っていたところへのジャストミートだから、噛みしだくうちに自然と目尻が下がってゆく。
もう一品はきのこオムレツだ。
混ぜて流して焼くだけ、シンプルでありふれた外観は、その実、とても深い奥行きを備えていた。
すっと断ち割るとゴロゴロと出てきたたくさんのポルチーニ。これはもう、混ぜて焼くというより、茸を玉子で巻いて焼いているというくらいに豪勢だ。惜しげもなく使っている茸を、私も負けじと口へ放り込む。しなやかな食感が途切れる底でコリッとした妙なる歯触りが弾ける。その、コリッからつながるのが森の香りである。それも、冬へと移ろう晩秋の森の、だ。枯葉や松脂(まつやに)、乾きつつある腐葉土。若葉のころの勢いはなく、馴染んで熟れて、眠りに就く前にひとときの明るさを灯した秋の芳しさが、匂い立つ。
いい香り、と一辺倒に括るのは私は抵抗がある。朽ちてゆく木や葉を咀嚼し熟成させたアロマは、やはり特殊であって徒にポルチーニという名につられてイイカオリダナと吹聴したくはない。そのうえで、私はこの複雑で、自然の営みを垣間見せる香りをこよなく愛するのである。
一連の料理を口にし味の良さにも驚いて、またいつしか満席になった店内の様子からようやく私が推す理由が分かったらしい。感想を述べるWさんに、したり顔で頷いていると、隣のテーブル――会話からして医療従事者たち――の人々のオーダーが聞こえてきた。え、追加もできたの?
と、慌ててお給仕の女性を捕まえてお願いしたのがこちら。甘鯛のズッパ。
あちらのスープの一種である。有名どころでは野菜たっぷりのミネストラ(ミネストローネ)が挙げられ、双璧の一方がズッパだという。他には伊太利式ポタージュ・ヴェッルタータがあろうか。ズッパはミネストラと比べるととろみがあって濃厚で、パンを入れたり浸したりして頂くもの。だから伊太利語の文法でも、ズッパは「食べる」であり、ミネストラには「飲む」を使うそうな。
オムレツにサルシッチャと、この店のシンプルさとは洗練なのだと味を占めた身にとり、具材の見当たらない平皿は大いに興味をそそるばかりだ。ひと匙含めば、むせ返るほどに濃厚な魚の旨味が口腔を支配する。甘鯛のアラや中落ちをひたすら煮込み、トマトや香味野菜で味を調えたであろう豊かな造作が手に取るように伝わる。
甘鯛はもとより旨味の豊富な魚だが、そこから丹念に旨味を絞り出し、凝縮させたのだからどう転んでも美味としか言いようがない。
感心なのは磨きすぎていないところだ。煮出すあまりとろみのついたズッパは、細かな魚肉や皮、何かの膜などが微粒子になって含まれている。小骨や鱗こそ取り除かれているが、敢えて“濁り”を残すことで魚の匂いが強く出ている。生臭いといっているのではない。生臭さは鮮度がかなり落ちてから出るのであって、魚本来の匂いとは全く別物である。
ふるいつきたくなるほどに密度の高い旨味は、濾さずに残した諸々の微粒子により舌触りに起伏を、アラ特有の風味が匂いに抑揚を、それぞれ与え、お上品に澄ましたスープではおよそたどり着けない野趣に彩られていた。至福。順番を無視してまで注文した甲斐があった。
大満足の昼飯からドルチェへ。店に入ってすぐのショーケースから品定めと参ろう。Wさんを促してそそくさと向かう。
どれもこれも現地の様式に忠実な顔ぶればかり。呻吟する私を尻目に、Wさんはさっさと決めてしまった。早い。
悩んだ末のドルチェは、マリトッツォMaritozzoである。
首都ローマを抱くラツィオ州の伝統的な生菓子である。菓子パンに生クリームを挟んだだけのシンプルな(このテクストで何度目だ)スタイルながら、ローマっ子のハートをわしづかみにするかの地の名物とのこと。まさかここで出会えるとは、嬉しい限りだ。
こってり、なんて表現が生易しいほどの圧倒的な量のクリーム、パン生地よりも多いくらいである。
アンバランスがもたらす偉容ににやけが止まらない。込み上げてくる笑いをそのままに、手づかみでかぶりつく。
固めに立てたクリームの山に躊躇せず、突入、と、豊沃なる乳脂の奔流に舌と嗅覚が蹂躙される。ケーキや、そのほかの菓子でクリームを口にすることは当然あるが、なにかのついでか、主役が他にいたりと、じっくり見据える機会は意外に乏しい。膨大にして純潔なる生一本は、しかし味わおうにも味覚は豊満に塗りつぶされ、乳脂に酔う始末。
敷いてあるパンはシュー生地のようにさくさくとした歯触りを備えているがシューとは違う。ほんのりと甘みも載せてあり、ただのパンだと甘みのなさが味わいに物足りなさをもたらすところ、段差を埋めて味わいをシームレスな仕上がりにしている。高雅なる甘ったるさでだらしなく蕩けた私に、Wさんは苦笑するばかり。そんなWさんのトルタ・デ・リコッタ(リコッタチーズのタルト)もまた見事なものだった。
完食。
食べることが苦痛だったり、ないしは無関心という人もいるとは思う。腹さえ膨れればなんでもいいとの考えも尊重はする。私から押し付けや、改めるようにとの申し入れはしない。本日のエスコォトも、相手をよく見たうえでであり、少なくとも迷惑はかけていないはず。
気を遣わぬでもなかったが、避けてばかりいたのでは孤独も独りよがりの歪みが出かねない。たまには同行いただくのも大事かと。(了)
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