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1870年代の絵画ーシャルル・グレールの門下生からー

19世紀後半、ロンドンで活躍した画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler)。これこれの流派に属す、と容易には言い難い独特のタッチが好きすぎて色々調べているうちに、彼に影響を与えたであろう同時代画家たちにまで興味を覚えるようになりました。

陸軍に入ったり銅版画工をやったりしたホイッスラーは、二十歳を過ぎた頃もっと絵を学びたいと言ってパリに移ります。そこで師事したのがシャルル・グレール(Charles Gleyre)で、さほど目立った業績もない保守的な画家だったようですが、この人、二つの点でホイッスラーにぴったりの先生でした。すなわち、授業料を取らず、教育方針は自由。裕福な友人に頼る生活で自身は収入のあてもなく、幼少期から気まぐれで怠惰なところがあったホイッスラーにとって、これ以上の先生はいなかったでしょう。うんまあピッタリって言うか「あの先生が一番ウザくないねん」って感じのアレだったかもしれんけど…

移り気で独学好きのホイッスラー(ほんまどんだけ自分勝手やねん…)は実際のところ短期間でグレールのアトリエを去りますが、ここで彼はある重要な学びを得ています。それは「色よりも形が重要である」「全体を調和させる基本色は黒である」という原則です(https://www.jamesabbottmcneillwhistler.org/biography.html より)。ではここでホイッスラーの有名な作品を見てみましょう。

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「青と金のノクターン:サザンプトンウォーター(1872)」キャンバスに油彩 https://www.wikiart.org/en/james-mcneill-whistler/whistler-nocturne-blue-and-gold-southampton-water より引用


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「黒と金のノクターン:落下する花火(1875)」板に油彩 
https://www.wikiart.org/en/james-mcneill-whistler/nocturne-in-black-and-gold-the-falling-rocket より引用

いやー良いですね。黒で調えられた静謐さ。上の作品からはボートの舷側を穏やかに叩く波の音が、下の作品からはゆっくりと落下しながらパチパチと小さく爆ぜる花火の音が、静かに、しかしはっきりと聞こえてきそうです。


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「アニー・ヘイデン(1860)」紙、ドライポイント
https://www.wikiart.org/en/james-mcneill-whistler/annie-haden-1860  より引用

若い頃のホイッスラーはスケッチ風の版画を多く製作しています。この頃のほうが、「色よりも形」を重視する姿勢が明らかですよね。まあ版画だから色はそんなにつかないんだけど…

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「灰色と緑のハーモニー:ミス・シシリー・アレキサンダー(1872/73)」キャンバスに油彩https://www.wikiart.org/en/james-mcneill-whistler/harmony-in-gray-and-green-miss-cicely-alexander-1873 より引用

再び1870年代の作品。こちらも黒が良いアクセントとなっており、またしっかりした描線で、人物が醸し出す雰囲気を的確に捉えようとしています。40歳前後の円熟期にあったホイッスラーの画風に、グレール先生の教えが地味に受け継がれているじゃないですか。…え、そうでもない?いやもちろん異論は受け入れますが、ここで言いたいのは「誰かが誰かに与えた影響を考えてみるのって面白いな」ってこと。文化芸術に限らず、教育・科学・スポーツ・政治・宗教… 全部そうですけど。影響の仕方によっては、怖いことも起こりますけど。

で、このグレール先生の門下って有名な画家がけっこういるんですよ。その人たちは、ホイッスラーが画家としての本領を発揮しつつあった1870年代にどんな絵を描いていたんだろう?どんなふうに影響を与え合っていたんだろう?そんなことが気になりだして、アトリエ仲間の同時代作品を調べてみたくなったんです。ええ、そうです、ようやくタイトルに辿りつきましたよ!では早速行ってみましょう。


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「印象・日の出(1872)」キャンバスに油彩
https://www.wikiart.org/en/claude-monet/impression-sunrise より引用

モネ(Claude Monet)も、グレール先生のアトリエに出入りしていたメンバーです。ただ先生の「多少盛って描きなさい」という指導が嫌でただ出入りしてただけのようですが。これは1872年発表の作品。モネとホイッスラーとの間に親交はなかったみたいですけど、同じ年に同じようなモチーフの作品を制作しているのは不思議ですね。印象派の重鎮となっていくモネのほうが、より感覚的で色彩の鮮やかさを感じさせる画風のように思えます。


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「灰色の枢機卿(1873)」
https://www.wikiart.org/en/jean-leon-gerome/eminence-grise-fran-ois-leclerc-du-tremblay より引用

彫刻家としても名を馳せたジャン=レオン・ジェローム(Jean-Leon Gerome)の作品。三十年戦争への介入、マリー・ド・メディシスとの政争、ハプスブルク家との抗争などで有名なフランス宰相リシュリュー公(WOWSのTier8仏戦はこの人から来ている*)、の腹心であり諜報組織のまとめ役を務めた修道士トランブレーを描いたもの。背後にある巨大な紋章はリシュリュー公爵家のもので、いち修道士の背後に並々ならぬ権力が控えていることを示しています。トランブレーさんの大物感ヤバいw  大作映画のワンシーンのように重厚感とドラマ性のある作品で、かつリアリズムに寄ってますね。


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「青いドレスの女性(1870頃)」キャンバスに油彩https://www.fineartlib.info/gallery/p17_sectionid/49/p17_imageid/2953 より引用

グレール先生の愛弟子だったというオーギュスト・トゥールムーシュ(Auguste Toulmouche)が41歳の頃に描いた作品。絵の中に不穏な要素がなく、美しい横顔と均整のとれた体型を持つ人物は「ちょっと盛って描きなさい」というグレール先生のお眼鏡に適う作風なのかも。トゥールムーシュは上流階級の女性を好んで描く一方、1870年に勃発した普仏戦争ではパリ防衛に参加しレジオンドヌール騎士勲章を受勲した、という一面も持つ人です(四十過ぎてマスケット銃かつぐとかヤバいって、腰痛めるから…)。そうそう、この普仏戦争にどう反応したかは画家によって分かれるところで、トゥールムーシュのように勇んで参戦した人もいれば、モネのように兵役を避けて英国などに渡った人もいます(モネも二十歳で徴兵されて兵役を務めた軍経験者ですけどね)。


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「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会(1876)」キャンバスに油彩https://www.wikiart.org/en/pierre-auguste-renoir/ball-at-the-moulin-de-la-galette-1876 より引用

同じく普仏戦争参戦組、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)による有名な作品。壁に掛かっているカレンダーとかで3年に一回は目にするぐらいポピュラーですよこの絵は。いやあ明るい!楽しそう!「あ〜めっちゃキラキラしてるわ〜」って印象を、見る人になんとしても追体験して欲しかった、そんな作品ですね。保守的なグレール先生からしたら「なんコレ」って感じだったと思うんですが、そこは先生、教育方針自由ですから!生徒のことディスりませんから!知らんけど!いやそういう束縛しない感じがいいよねえー


「レ川の畔の風景(1870)」キャンバスに油彩
https://www.wikiart.org/en/frederic-bazille/landscape-on-the-shore-of-lez より引用

おお、これも明るい。なんと眼に優しい。初夏の日差し、木々の葉を時々そよと揺らす風の動きが感じとれるようです。作者はモネやルノワールと仲が良く、彼らを支援しながら自らも絵を描いたフレデリック・バジール(Jean Frédéric Bazille)。彼も普仏戦争参戦組で、残念なことにこの絵を制作した1870年の11月下旬に戦死しました。パリに出てきた当初、彼は医学を専攻するよう両親から強く言われていました。好きな絵を描きたい、けど親の意向も踏まえなきゃ…と進路で少し悩むことがあったとしたら、あんまりガチじゃないグレール先生のアトリエは居心地が良かったでしょうね。


「ベルクの浜辺(1876)」キャンバスに油彩https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Ludovic_Lepic より引用

一転して物憂げな暗い浜辺。前方の空は雨雲がかかっているようです。思わず引き込まれそうな何もなさ。「とにかく盛って描きなさい」が信条のグレール先生には眉をひそめられそうですね。いやしかし皆バラッバラだなここで挙げた画家たちの画風。自由奔放だ。この作品の描き手は祖父と父に軍人を持つルピック(Ludovic-Napoléon Lepic)で、動物画や版画を学びつつもそこは血筋なのか、古代の武器や道具の研究・再現にも熱心に取り組んだという少々変わった人物です。て言うか油彩は二の次だったのかもしれませんが、画力は上げたいというので頼った先生の一人がグレールだったと。社会的信用度けっこうありますよねグレール先生…


「放蕩息子の帰還(1873)」
https://www.wikiart.org/en/charles-gleyre/le-retour-de-lenfant-prodigue-1873 より引用

じゃあ最後は先生ご自身の作品を。うっわめっちゃ宗教画。タイトルが "Le Retour de L'enfant Prodigue" で翻訳かけたら上記のようになりました。放蕩息子(罪人)の帰宅を無条件に受け入れる親(神)の愛の深さを教え諭すという、聖書のたとえ話が主題となっているようです。ただ聖書においても、同じ主題を扱ったレンブラントの作品⁑においても、帰ってきた息子を抱き寄せるようにして迎え入れるのは父親で、それを見てぶつくさ不満を言う兄、という構図があるのですが、グレール先生ちょっとアレンジしてますね?迎え入れるのは母親になっていて、右奥に描かれた人物は妹に見えますし表情もいたって嬉しそうです。古典をそのままなぞってもなぁ…と思ったんでしょうか。オリジナルでは影の薄い女性を二人加えるほうが「盛れる」と思ったのかもしれません。いやあるいは… この作品がドイツ(プロイセン王国)の圧勝で終わった普仏戦争の終戦からわずか2年後であることを踏まえると、何はともあれ五体満足で帰還した息子が愛しくて仕方ない母親、恥じ入るような兄の表情に萌えている妹、「なあお前、よく生き残ったわ誇らしいぞワシは!」とでも言いたげな父親、という”家族の愛の深さ”を表しつつ、敗戦の屈辱に沈むフランス国民を慰撫しようとする意図があるのかもしれません。だとしたらグレール先生、世の流れってもんを掴んでるじゃないですか!ただの保守的な回顧主義者じゃないってわけで!さすがは「何を描いてもいいんだぜ…ウチのアトリエじゃな…」精神の体現者!自由奔放に好きなものを描く若いアーティストたちに日々接して、グレール先生自身も感化されてたのかもしれませんね。


と、言うわけで色々見てきました1870年代の絵画。バリエーションがあって面白いですね。「写真機が発明されたんだから絵なんか描いても仕方ないだろ?」「は?いや俺は俺が感じたものを描きたいから。写真には写らない美しさってもんがあるだろ?」みたいな気概があって良いですよね。ホイッスラーを紹介しながらギュスターヴ・クールベに言及しないのは心苦しいですけど、今回はグレール先生の門下生という縛りに沿ってみました。いやまたいつか、ホイッスラーについて書きたいですね。それではまた!


*Wargaming社運営のオンライン海戦ゲーム"World of Warships"フランス海軍Tier8戦艦リシュリューのこと。

⁑レンブラントの作品はこちら☟

 #アート #絵画 #19世紀の美術 #夏の自由研究  

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