日報200415
今、居場所をつくることが難しくなってきていると感じ始めています。
感染症に対する恐怖や不安が人を近づけることの嫌悪感を生み出し始めていて(しかも、ぼくにも少なからずある)、何となく人がいると安心という場から何となくいることへの不安や疑心になりかねない状況になっている。
知っている人に対しても。うーん。まずいなぁ。と。
荒井さん、元島さんとつのつの放送局をやってぼくは主催者側だけど当日は参加できず録画を視聴し、知り合いの人がfacebookでライブしているのを見かけ、画面の向こうに知り合いがいることが増えてきています。最近は打ち合わせもとうとうzoomですることも経験しました。
画面の向こうにいる。そのことで気持ちがやすらぎ、支えられるという感覚もあります。
だけど物理的な距離がある安心感に依存せずに、会えないことの寂しさや切なさ、本物の人がいないという違和感を伴っているということを忘れないようにしたいです。刻みつけたい。
今日はあるメンバーは工賃を管理されているのが気に食わないと、午後は全く目を合わせてくれなかった。代わり映えのない、やり取りです。
ぼくは苦笑いし、むこうはぼくを困らせようと真剣。
朝はあんなに笑顔で話しかけてくれたのに、午後になったら全然、目を合わせてくれないのだ。モヤッとする。向こうはもっとモヤモヤしているだろう。なにかの表紙にケロッと忘れるだろうとも思う。けれど、それはずーっと繰り返してきた営みの1つだったりもします。
感染症対策としてかなり急な体制づくりをこの2週にわたってしてきて、メンバーはもちろんスタッフも、100%納得しているかといったらしてないだろうと思います。気持ちは置いてけぼり。先が見えない…なんて言い訳になってしまいます。
自分もいろんなものを、ただでさえつまづいてこぼしているのに、いつも以上に取り零し、そして家ではひとりでできていないことを数え始めてしまう。先の見通しがない中で、自分が小さくなるのを感じていました。実際は190cm90kgもある冷蔵庫みたいな体積なのに。けれどそんなぼくでも、誰一人として欠けることなく、次をつくることを始めたいとも思っています。今の自分の気持ちとして。
さっきまで妻と電話していて、どうやら来月、リベルテが8年目になること、入籍して7年目になることに気づく。
そうやって考えると妻に、弱音を吐き(スルーされ)、ある人にSNSで励まされ気持ちを新たに前を向こうと思ったことや、日々スタッフの支えてもらっていることを報告し、情けなさを引きずりながら明日はこんなことしようと思っているんだと話している、そんな今は、まだこれからも続いてい浮くのだからまだまだ、大丈夫だ。
この7年間で失ったものと言えば、頭髪ぐらいだ。
そのうち、息子はなんで父ちゃんハゲてるの?と、ぼくが小さいころ父にした投げかけた同じ質問をしてくるだろう。
何か見えないものに支えてもらっている。
そう言えば、5年前に亡くなったメンバーの絵を家の玄関に飾っていて、その絵は毎日ぼくを見送ってくれ、そして迎えてくれる。
見えない何かに不安を抱く日々だけど、もっとつぶさに目の前を観察したら信頼すべきものは沢山あるし、見ないけれどかすかに記憶や感覚の中に残っているものも信じるようにしたい。
この絵を描いていたメンバーがいたから、ぼくが説明をしなくても勝手に、リベルテは絵を描いていていいんだという場になったのだ。人、表現、営み、作品、人、、、連続していくそれらを紡ぐ「関係性」というものもの見えないしときに驚異すらなる。でもそれが切れてしまい、孤立を生みだす方がよっぽど怖いです。つくること、今は、目の前にある、それを大事にしたいです。