ラットレース

物事を極める難しさ(時間が惜しい方は読まないでほしい)

何事も、物事を極めるというのは時間と労力がかかるものだ。

そんな中でも、私が極めたいと考えている「ぐだぐだ」については、
極めるのにより一層困難な壁が立ちはだかっている、と感じている。

そもそも、「ぐだぐだ」とはどのような状態か?

”自分の欲望のままに、
ただただ「生産性がない」と思われることをやり続ける。”

これが私が行きついたぐだぐだの定義だ。

間違っても、
オーガニック野菜の野菜スティックを食べながら社会派映画を観て、「世の中こうあった方がいいのではないか?」等という建設的な自問自答を行ってはいけない。

布団に寝転がって遺伝子組み換えの安いポテトチップスを食べながら(ほんとは遺伝子組み換えかどうかはどうでもいいことなのだが)、海外ドラマや観たい映画を昼夜を気にせず片っ端から観て、

「あー、面白かったなー(棒読み)」

といったことを、鼻をほじりながら言う。

それが正しいぐだぐだなのだ。

一方で、ぐだぐだとは形式的な「形」だけではなく、「心の状態だ」という話もある。

ぐだぐだの定義に立ち返ってみよう。

【定義】自分の欲望のままに、
ただただ「生産性がない」と思われることをやり続ける。

後半の一文は先ほど述べた「遺伝子組み換え~以下略」のような行動を指しているが、より重要なのは前半の一文「自分の欲望のままに」である。

私のように、一度「ぐだぐだを極めよう」などといったことを考えてしまうと、危うく形式的なことにとらわれてしまいかねない。

本当に大切なことは目には見えない、と星の王子様のキツネも言っている。

本当に大切なことは、
「自分の欲望に身を任せ、ぐだぐだしているのかどうか?」だ。

そう考えると、瞑想をしている最中に「頭を真っ白にしよう」という考えで頭の中がいっぱいになってしまうのと同じ現象が、ぐだぐだに対しても起こっているような気がする。

多くのぐだぐだを極めようとしている「ぐだぐだ戦士」たちも、もっと「ぐだぐだしなければ」という元も子もない義務感が発生しているのではないか?
最近そのような疑問を拭いきれない。

そこで、この世にぐだぐだ論を提唱している私は、自分の中でこの矛盾を解消するため「ぐだぐだマスター」を目指す事を辞めることにした。
つまり、私自身は「ぐだぐだを極める」という鍛錬を一度やめさせていただく、ということだ。
ファンの皆さんには、突然の衝撃発表となってしまい申し訳ない。

では今後、私が全くぐだぐだについて語らないかと言うと、それは違う。

私は「ぐだぐだマスター」は目指さないが、日本唯一の「ぐだぐだ評論家」になる事をここに宣言したい。
ぐだぐだ評論家とはすなわち、「ぐだぐだを極めるためにはどのような鍛錬が必要か?」「よりよいぐだぐだとは何か?」といったことを研究対象とし、日々ぐだぐだに向き合っていく人間のことである。

本当は「ぐだぐだマスター」にも「ぐだぐだ評論家」にも、どちらにもなってみたかった。

しかし、「研究」を行う時点で、ぐだぐだとは矛盾した行動・心理に向き合わなければならない。
そういったことから、今回断腸の思いでこの決断に至った。

皆さんにはぜひ、このくだらない内容にかけらも興味を持たないでいただければ幸いである。
今後とも、ぐだぐだ評論家山本を、テキトーな眼差しで見守ってほしい。

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