小説 電子禁煙 第八章 個人と国家

 日暮れとともに降り始めた雨は雨脚を強め、北風とともに窓に打ちける横殴りの雨となり、暴風雨の雨天の夜であった。大粒の雨の雨音のせいで、そして、発達した雷雲に光る雷の爆裂音のせいでテレビの音は聞こえず、初老のスジガネはテレビのボリュームを何度か大きくし、テレビのスピーカーから発せられる音はそれに合わせて大きくなり、拮抗する雨とテレビの音が部屋を満たした。
 スジガネは先ほどから夕食の箸を止めて、テレビのニュース番組にくぎ付けとなっていた。スマホで煙草が吸えるという画期的アプリが爆発的な勢いで普及しており、それはもはや社会現象になりかけているとテレビは伝える。ブームの経緯や街の声がニュースの内容であり、その技術的な仕組みについては触れられていなかったが、スジガネはすぐにそれが超音波と光によるものだと気が付いた。自分が20年以上前に開発し、そして使用を禁止した、あの技術が盗用されているに違いないとと思ったのである。
 食べかけの焼き鮭、もやは夕食などそっちのけで、さっそく自分のスマホにアプリをインストールしてみたスジガネは自分の直感を確かめた。やはりそうだ。煙草が燃えるチリチリ音とともに超音波を発し、煙の揺らめきによって発光パターンを再現している。電子工作が趣味のスジガネは自分で持っているスペクトルアナライザと高速度カメラを使い、さらなる詳細な分析を行ってみて腰を抜かした。パターンがより洗練されていたのだ。何者かの手によって自分が開発した技術を進化させていることを見抜いたのである。
 スジガネはこの事態をきわめて重く見た。自問自答を繰り返す。この技術は人体に対して、というよりも人類に対して危険であるから、NTで使用を禁止したはずだ。それに伴って、特別にセキュリティの高い研究資料としてごく一部の人間しか見れないようなロックがかかっていたはず。誰かが盗みだしたのだろうか。それとも私が辞めて以降、NTではあの研究を再開したのか。しかし、ニュースを見る限り、NTは開発に関わっていない。それどこか、むしろ、NTがアプリの公開中止を申し出て騒動になったとさえ言っていた。だとすれば、内部の誰かがやはり盗み出した? しかも、このパターンは自分が開発したものとは違う。ということは誰かがバージョンアップさせている? いったい何者なんだ。答えは出なかった。
 スジガネの困惑と怒りに呼応するかのように、外の雨はますます強くなっていった。風は渦巻き、雷は地面に到達した。スジガネは決意した。この技術を開発した張本人の責任として、こんな危険なアプリの普及は今すぐ止めねばならぬ。

 まず話をすべきは、アプリの管理者である。シメジという人物であった。こいつが技術を盗み出したのだろうか。連絡先として公開されていたアドレスにメールを送ってみたが返信はなく、携帯に電話をかけてみたりしたが全く出なかった。そこで、ターゲットを変更し、スジガネは知人を通じ、NTの内部調査をしてもらおうと考えた。当時同じ部署にいた後輩に、と言っても今では立派な肩書を持った役員であるが、スジガネは今回の事態について説明。社内で調査してくれるよう申し入れた。
 世話になった先輩からの要望であったから、とりあえず「社内に持ち帰り検討する」と伝えた役員であったが、後日スジガネの元に届いたNTからの返答は「技術の流出はなかった」というそっけないものであった。
 NTにも大々的に調査できない社内的なジレンマがあった。人体に悪影響を及ぼすこのような技術を、すでに中止したとはいえ過去に研究していたことを公表することで会社の評判を落としたくないという側面。そして、該当する資料は非常に厳重なセキュリティのもとに管理されているはずであったが、サーバー移行の不手際によって社内のだれもがアクセスできる状態になっていたという事実を公表するわけにはいかないという側面。その板挟みによって、スジガネの要求はつぶされてしまったのであった。
 スジガネはその後も何度かやりとりを繰り返したが、捗々しい結果を得られなかった。シメジという人物からの返信もないままだ。そこで、スジガネは渋々、次の手段に打って出ることにした。多少強引な手ではあったのだが。

 匿名の人物から「喫煙アプリは人体に危険な技術が使われている」という情報を手に入れたテレビ局は、裏付けのための取材を開始した。どうやらリークの内容は本当らしいと判断し、生放送のニュース番組内で特集を組むことを決定した。そこに技術的な解説を行うために専門家へ出演をオファーし、スジガネは番組に出演することにした。
 もちろん、これらすべてが建前であり、スジガネが特ダネとしてテレビ局に持ち込み、これ幸いとテレビ局が乗っかったのである。
 先日アプリについて伝えたのと同じニュース番組で、その第二弾の特集が生放送で始まった。
「現在、爆発的な普及を見せている喫煙アプリについて、一部のマスコミの間で、このアプリは人体に悪影響を及ぼすものであるという驚くべき指摘がなされています。今日は、この点について、超音波に詳しい、科学者スジガネさんにスタジオにお越しいただきました。スジガネさん、よろしくお願いします」
 一部のマスコミという前置きを付けることで、スジガネのリークであることをぼかしたのは、テレビ局の気づかいであり、巧妙な逃げ道であった。
「よろしくお願いします」
「まず、今、一部のマスコミの間で指摘されている超音波に関する報道ですが、これはどういうことでしょうか?」
「このアプリはですね、画面に煙草が表示されると同時に超音波が再生されるようになっています。もちろん超音波ですから耳には聞こえません」
「超音波、ですか?」白々しい相槌を打つキャスター。
「ええ、そうです。そして、さらに画面上からある特定の光の点滅ですね、これが表示されるようになっています。これも巧妙にカモフラージュされて、認識することはできないようになっています。この超音波と光が組み合わさると、ある特定の化学物質が人間の脳の中に分泌されて、それが煙草を吸った時と同じ状態になるんです」
「にわかには信じがたいのですが、そんなことが本当にスマホで可能なのでしょうか?」
「私もこれに気付いた時は驚きました。しかし、公にはされていませんが、このような技術の研究というのは過去にいくつかの組織で行われていたもので、その技術がスマホ向けに流用されたのではないかと考えられます」
「組織というのは具体的に?」
「その点はすみません、申し上げられません」今回の件に何の協力もしてくれなかったNTではあったが、スジガネは最低限の礼儀は通した。
「なるほど、では、この技術は人体にはどのような影響があるのでしょうか?」
「興奮や鎮静を促す化学物質を、脳内で強制的に分泌させるわけですから、繰り返し使用していくと、脳が耐性を持ってさらに過剰な分泌を求めるようなります。結果として、依存症になってしまう確率が非常に高いと考えられます。また、長期にわたる使用によって脳の機能の低下などが起こる可能性も考えられます。決して体にいいとは言えないですね」
「依存症であったり、脳機能の低下など、つまり、麻薬に近いものであると?」
「そうですね、もちろん、この点はさらに科学的な検証が必要だとは思いますが、わたくしの個人的な見解として述べさせていただくなら、麻薬に非常に近しいと感じております。一種の新しい麻薬のような危険性をもったものが今、未成年も含め、この国に急激に広まっていると、そういう危機感を抱いております」すこし表現が過剰すぎたかとスジガネは思ったが訂正はしなかった。
「禁止すべきだと?」
「国の指導によって、何かしらの規制、禁止に関するルール作りは早急に行うべきだと思っています」
「なるほど、分かりました。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 その後、不安を煽るようなVTRが流されてニュースの特集コーナーは終了した。自分としてはやれるだけのことはやった、と肩をなでおろしたスジガネであったが、消火したつもりが火に油を注ぐ結果になっていたことにこの時はまだ気づいていなかった。

 スジガネのテレビ出演をきっかけに、残念と言うべきか、当然というべきか、電子煙草NEOのダウンロード数はさらに増加した。スジガネがキャスターに誘導されて思わず口走ってしまった「一種の新しい麻薬」という警告は、アプリの性能にとってこれ以上ないお墨付きを与え、最高の宣伝文句となった。その結果、旧時代の煙草を吸ったことがない層までもが興味本位でアプリに飛びついた。
 ユーザー数の増加に伴いシメジはさらに巨額の利益を得ることとなった。一生かかっても使いきれない額の金を手に入れた。前から欲しかったBBQグリルとテントを買ったが、そんなものは端金ですらなかった。大きすぎず使い勝手の良い愛車、一人で暮らすのに適当な広さの自宅マンション。シメジには今の生活が十分であって、これ以上を望もうとは思わなかった。投資やギャンブルや怪しい儲け話にも興味がなかったから、貯金の残高としての数字は、もはや目まぐるしく増加していくストップウォッチの時間の数字と同じだった。お金はいくらあってもいいと思っていたシメジにとっても、国中の人間から払われるその金の膨大すぎる額には嬉しさの先に芽生えた虚しさを感じていた。
 増加し続けるのは貯金だけではなかった。問い合わせのメールやSNSへのメッセージ、携帯への電話なども24時間止まることはなかった。ひとつに応えてしまえば他にも返信せざるを得なくなるので、すべてまとめて無視していたが、いつまでもそんな態度で通用するわけがないのはシメジも重々承知していた。いつしか、金と責任がシメジをじわじわと苦しめ始めていたのである。

 一方で、スジガネの指摘によって、超音波と光によってデジタルな麻薬が作れると知ったアプリ開発者たちは、すぐさま電子煙草NEOを解析し、独自のコピー版電子煙草アプリを次々とリリースし始めた。あっという間にアプリストアは偽物の電子煙草アプリで溢れかえった。そして、偽物の煙草や密造酒の質が本物よりも悪いのと同じように、これらのアプリの質も悪かった。超音波と光のブレンドは素人の目分量や計測値に基づく精度の低いコピーではまねのできない繊細なものであったから、そのレシピの再現は極めて困難であった。
 「効果2倍!」などと無責任に謳っていながら、何の効果も感じられない無味無臭の失敗作を掴まされるのはまだいい方で、怪しいアプリの影響によって、嘔吐を繰り返したり、眩暈や幻覚に見舞われたり、脳内物質の過剰分泌によってオーヴァードーズ状態に陥る者すら現れるようになった。偽のアプリを使用して病院に緊急搬送されるなどという事件もニュースで取り上げられるようになっていた。

 アプリのさらなる普及と偽物の横行。良かれと思ってニュースでアプリの正体を明かしたことで、状況がさらに悪化してしまったとはいえ、そのスジガネのテレビ出演が問題提起となり、国民全体を巻き込んだ規制論争が起こったのも事実であった。「麻薬」や「未成年にも浸透」といたワードに一部の団体が敏感に反応した。また、全国各地で起こり始めている健康被害についても、国として看過できない状況になりつつあったので、政府は特別検討委員会を設置。専門家を招いて、アプリ規制に関する議論を行うこととなったのである。
 この委員会にはNTの幹部も招聘されていた。政府としては「葉たばこの専門家」としての招聘であったが、委員会の中で幹部は、研究の時期や技術的詳細については公開できないとしつつも、NT内で過去に同様の研究を行っていたことを公表、参加者を驚かせた。
 研究に関する資料の流出については、そのような痕跡は一切認められなかったと付け加えた。もちろん、社内のサーバの勝手口が開いていたことなど発表するわけがなかった。そして、この技術が人体に悪影響を及ぼす事が明らかになったため、研究自体を途中で終了させ、その後、一切の商品化を禁じていたと説明。研究資料自体もごく一部の人間しか閲覧できない状態であったと補足した。何が何でも自分たちに批判の矛先が向くことだけは避けようというNT流の最大限の努力であった。
 NT以外にも、脳科学、警察の麻薬取締部門、音響機器、光学機器、医師、スマートフォン、製薬、など様々な分野の幹部や重鎮が名を連ねた委員会であった。音響機器や光学機器のメーカーの人間にしてみれば、あわよくば、この魅力的な技術の詳細を知れるのではないかという打算もあった。であるから、NTが自社の技術であることを発表した際には驚きをもって受け止められたが、結局詳細については何も公表されず、彼らにとってはため息をつくだけで得るもののない会合となった。別の、とある委員からは「アプリも煙草と同じ。百害あって一利なし。煙草と違って肺癌にはならんから九十九害か」などと悪口なのか皮肉なのか分からない冗談も出たが、各委員の意見は、アプリを規制する方向で概ね一致した。数回の開催の後、「喫煙アプリは人体に悪影響を及ぼす危険性が非常に高いため、法律で禁止するべきである」との提言を決議した。

 この提言を受けて、国は超音波と光の組み合わせによって脳内の化学物質分泌を目的とする、いわゆる電子煙草アプリを配布・使用することを全面的に禁止する法律、通称『デジタルドラッグ禁止法』を施行。これによって、アプリストアからは電子煙草NEOを含むすべての電子煙草アプリが姿を消したのである。シメジが一人キャンプでハラミとバラを焼たあの日からまだ1年も経っていなかった。シメジにとってすべてが目まぐるしい速さで進むステップフォワードの日々に終止符が打たれたのである。
 シメジ以外のアプリ業者にしてみれば、せっかくのとてつもない宝の山を閉鎖されて憤慨したが、ジメジはアプリが法律によって禁止されたことに正直ほっとしていた。シメジは大きめの安堵と小さめの喪失感を手に入れて、穏やかに虚脱した。取り憑いていた何かが去っていった気分だった。
 たった一人の人間が管理できる範疇をとっくに超えていたアプリの普及と規模はいつのまにかシメジには重すぎる荷となっていたし、かといって自らその幕を引くわけにもいかなかった。もしアプリの公開を終了したらどうなるか。血まみれでわめく狂人を前に右往左往した大人たちの醜態、シメジはすでにそれを知っていた。しかも、あの時と今ではもはや規模が違うのである。

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