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日本史:古墳時代 「大和のはじまり」

通訳案内士の試験勉強のための、まとめノートです。

おおよそ3世紀から7世紀までの時代。ヤマト王権とよばれる政治権力が成立し、前方後円墳が盛んに造られました。このような大きな構造物をつくるための権力基盤が発達した時代ともいえます。


ヤマト王権

4世紀ごろ、日本各地では豪族が土地や人を支配していました。その豪族が集まって、政治の連合体「ヤマト王権」を結成するようになり、その盟主が大王と呼ばれるようになりました。

日本書紀、古事記には、第12代景行天皇の皇子であるヤマトタケルが、九州の熊襲、東国の蝦夷征討の物語が記されています。その実在は不明ですが、中央政権が軍事力をもって全国に影響力を強めていったことが推し量れます。ヤマトタケルの墓は宮内省により、三重県亀山市の「能褒野大塚古墳」に治定されました。

5世紀の中国の歴史書「宋書」には、「倭の五王」が中国に朝貢したという記録があります。讃・珍・済・興・武の五王のことで、このうち武は、仁徳天皇の孫にあたる第21代天皇、雄略天皇(ワカタケル大王)とする説があります。

この「ワカタケル大王」の名が彫られている鉄剣が、埼玉県「稲荷山」古墳から発見されています。この鉄剣は、「金錯銘鉄剣」と呼ばれ、副葬品とともに国宝に指定されました。銘文には、『西暦471年の7月中旬に、私ヲワケの臣は記しておく。(中略)私の家は代々、杖刀人の首(護衛隊長)として大王にお仕えしてきました。ワカタケル大王の朝廷がシキの宮におかれている時に、私は大王が天下を治めるのを助けました。(後略)』と記されています。

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また、熊本県「江田船山」から出土した「銀錯銘大刀」の銘文にも、「ワカタケル大王」の名が刻まれていました。このことから、5世紀後半にヤマト王権の影響が九州から東国まで及んでいたと考えられています。

ヤマト政権の政治制度として、身分制度「氏姓制度」の仕組みがつくられました。「」は血縁関係をもつ一族に与えられた名称で、「」は地位のを表す称号であった。

姓の最高位は、「」であり、大王家と並ぶ権力を持ちました。葛城氏、春日氏、蘇我氏などに与えられました。その次の位として、政権内の重要な官人として「」があり、大伴氏、物部氏、中臣氏などに与えられました。

古墳

この時代、豪族や地方の有力者を中心として、大小さまざまな古墳が造られるようになりました。確認された古墳の数は16万基とも言われており、一番古墳が多い県は、兵庫県の1万9千基で鳥取県が1万3千基で続いています。

その中で世界最大級の墳墓として知られるのは、大阪府堺市の「大仙陵」古墳です。「仁徳天皇」の墓とされており、その鍵穴のような形から「前方後円墳」と呼ばれています。

大仙陵古墳

難波高津宮(現大阪府中央区高津)を宮とした仁徳天皇は、聖帝とも称され、仁政を施した天皇として記紀に記されています。人家の竈から炊煙が立ち上っていないことから、民が貧しい状態にあるのに気づいて3年間租税を免除したと伝わっています。

この堺市と、羽曳野市・藤井寺市にある「百舌鳥古市古墳群」は、2019年、アゼルバイジャンの首都、バクーで開かれたユネスコ世界遺産委員会で世界遺産に登録されました。

古墳には、円筒形、人、動物、建物などをかたどった素焼きの土器「埴輪」などの副葬品も一緒に埋葬されました。埴輪としては、群馬県太田市で出土した「挂甲武人」、綿貫漢音山古墳の「三人童女」を含む埴輪22点が国宝に指定されています。

埴輪2

仏教伝来

古墳時代の後期、飛鳥時代の少し前、538年(仏教伝来、ご参拝)、第29代「欽明天皇」の治世に、百済から仏教が伝わりました。この仏教伝来が、政治闘争に発展していきます。

蘇我稲目は、「西方の国ではみな仏教を信仰していうのに、日本だけしないわけにはいかないでしょう」と仏教に対して肯定的でした。それに対して、物部尾輿は、「我が国には百八十神がいます。蕃神などを拝めるば神の怒りにふれるでしょう」と、仏教を否定的でした。

欽明天皇は、百済の聖明王より献上された仏像を、蘇我氏にあずけ向原の家に祀りました。その後、疫病(天然痘)が流行したため、多くの人が亡くなった。物部氏はその原因が仏教のせいだとし、向原の家を焼き払い、仏像を難波の堀江に投げ込みました。

こぼれ話 ①
善光寺縁起によると、この「難波の堀江」に投げ込まれた仏像は、信濃の本多善光によって発見されました。それを信濃に持ち帰り、お祀りしたのが、「善光寺」の始まり(644年)とされています。この仏像、「一光三尊阿弥陀如来」は、日本最古の仏像と言われています。

こぼれ話 ②
欽明天皇が小瘡に感染し病床に伏せていた、あらゆる治療や祈祷を行ったものの治らなかった。あるとき「秋保温泉」の効能を聞いてその湯を都に搬送させ、沐浴したところ全快したとされている。天皇がその喜びを詠んだとされる歌が残っています。

“覚束な 雲の上まで 見てしかな 鳥のみゆけば 跡はかもなし”
奇妙なことに、名取(秋保)の湯を御所へ奉ったところ、鳥膚が消えうせた

名取御湯「秋保温泉」は、信濃御湯「別所温泉」、犬養御湯「野沢温泉」と共に、第84代順徳天皇が編纂した「八雲御抄」の中で御湯として取り上げられたことから、日本三御湯と呼ばれています。

蘇我氏の台頭

587年、蘇我氏と物部氏の争い「丁未の乱」が発生しました。この戦いは、仏教の受け入れを発端とした戦いで、この戦いに破れた物部氏は衰退しました。丁未とは、干支の一つで587年がこの年にあたります。

蘇我馬子(37歳)が率いる軍勢は、大和国から物部守屋の館がある河内国に向けて進軍し、餌香川の河原で物部軍と激突しました。この戦いで守屋は討たれ、物部軍は総崩れとなりました。この戦いには、厩戸皇子(13歳)も蘇我氏の軍勢として参戦したと言われています。この後、蘇我氏の政権内で勢力はさらに強大となっていきました。

こぼれ話 ③
丁未の乱で戦場となった餌香川は、現在の古市、道明寺の近くを流れる石川だとされています。日本最古といわれている「竹ノ内街道」を、大和国から河内国側に抜けたところに位置しています。この川の西岸には、古墳郡があり「古市古墳群」としてユネスコ世界遺産に登録されています。また、672年「壬申の乱」での「衛我河の戦い」、1615年 「大阪夏の陣」での「道明寺の戦い」の戦場にもなりました。


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