友達とも恋人とも喧嘩をしない話


どうして喧嘩するんだろう。したくてしている訳では無いのだろうけど、彼氏とまた喧嘩しちゃってさ、なんて言葉を聞くたびに、頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。あまりに喧嘩をしないので、喧嘩して分かりあって、という言葉を聞く度、いいなぁとさえ思ったりする。

乱暴でも気持ちが通い合っている感じがするからだ。(1つ前の記事を見てほしい)

喧嘩とは正義と正義のぶつかり合いで、お互いが自分の正当性を主張しあって起こるものだと思う。例え怒りでも、その人の本当の気持ちなのだから、それを表現することは、とても有意義な事のはずだ。だが、大半は落ち込んでいたり、イライラしていたり、負の事象として認識している。だから他人に愚痴を言ったりする。

喧嘩が起こるということは、お互いにその意見の表現方法が下手くそなのではないか。丁寧に思っていることを表現することが出来ないから、粗雑な言葉をぶつけ合って争いに発展してしまうのだと思う。きっと、言葉に気をつけて生活をする余裕が無いのだろう。または、ただ単にラッピングするのが面倒くさいから、そのままぶん投げて爆発、そんなもんだと思う。

世の中に起こる大半のことがどうでもいい私にとっては、ぶつかり合う意見がないから喧嘩が起こらない。それに、意見を全て飲むのはとても楽だ。たまにここだけは譲れないということがあれば、それをやんわりと主張するようにしている。相手は、私が何かを意見するのがとても珍しいから、大体受け入れてくれる。もし受け入れてくれなきゃ、相手に合わせる。その繰り返しなので、喧嘩なんて起こらない。

それに、自分が変わるのではなく相手を変えようとするから喧嘩という摩擦が生まれるのであって、そもそもそこに期待しなければ、喧嘩なんて起こらないのではないか。喧嘩をする人は、相手に期待をしすぎているのだと思う。自分と全く違う意思を持った赤の他人が、思い通りに動く訳なんてある訳ない(私のようにどうでもいい人は別として)。明らかに、相手の境界線に足を踏み入れすぎている。その近すぎる距離感が心地よいと感じる人がもし居るとするならば、私には理解出来ないし、気が触れているとしか思えない。

そうまでして自分の意見を通して、相手を従わせたとして、それで嬉しいのか、楽しいのか、幸せなのか。よく分からない。羨ましいけど、私には無理だ。

そんな訳で、昨日友達に聞かされた彼氏との喧嘩の愚痴を思い出して、書いてみた。「そうなんだ〜、最低だね、〇〇君」「それは言った方がいいよ〜」「うんうん、分かる〜」

分かる〜、分かる〜、

本当は全然分からない。

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