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ラファエロの偶像化と“良き趣味”の総崩れ

日めくりルーヴル 2020年11月19日(木)
『聖ゲオルギウスと竜』(1504-1505年)
ラファエロ・サンツィオ(1483-1520年)

本日の日めくりカレンダーは『聖ゲオルギルスと竜』。
2019年秋に訪れたルーヴル美術館で この作品を見た記憶がありません💦。
展示されてなかった? いいえ、おそらく私がラファエロ作品だと気づかなかったのでしょう。

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37歳という短い生涯の中でラファエロが何度も描いた「竜退治」ですが、本作は彼が21、22歳頃に描いたとされています。
槍で胸を突かれてもなお獰猛に襲いかかろうとする竜、それを華麗に退治する聖人、そして右奥には囚われの王女が逃げていく姿もキッチリ描かれています。
聖人伝説を説明する 絵本のような若々しい画面からは “ラファエロらしさ” を感じ取れません。
“ラファエロらしい” って何でしょう。

盛期ルネサンスの三大巨匠に対して私が抱く “らしさ” は、
 ◯天才肌のレオナルド・ダ・ヴィンチが持つ神秘性、
 ◯超人的な精神力と創造力のミケランジェロの厳しさ、
 ◯調和の取れたラファエロの甘美で穏やかな安心感、
といったところでしょうか。
特に、安定した構図や色遣いで描き出されたラファエロの聖母子を見ていると、無信仰の私でさえ心癒されるのです。
その一方で、出来すぎた作品を生み出す完璧な(人物に思える)ラファエロに対しては、特に「ラファエロが好き!」と感じたことはありませんでした。

それでも2019年秋に訪れたフランスの美術館で “ラファエロらしい” 作品を見つけると「おおーっ!」「ありがたや」と写真を撮影しました。

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①『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』(ルーヴル美術館)
②『ロレートの聖母子』(コンデ美術館)
③『三美神』(コンデ美術館)
④『オルレアンの聖母子』(コンデ美術館) 

とても貴重で良いものを見せてもらった!… とありがたい気持ちになるのは、日本ではラファエロ作品が見られないのが原因かも知れません。

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2013年3−6月国立西洋美術館で開催された<ラファエロ展>の図録を見つけたときは、とても興奮しました。
“あの” ラファエロ作品が23点も来日していたのですね!見たかった(涙)。

図録をパラパラめくっていると、本日の作品『聖ゲオルギウスと竜』を発見!。 ルーヴル美術館から貸し出されていたのですね。日本に来てくれた作品というだけで、親近感が増します(笑)。
それだけではありません。『大公の聖母』をはじめとする“ラファエロらしい” 大作もありましたよ。思わず手を合わせて祈りたくなります。

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         『大公の聖母』(パラティーナ美術館)

図録の中に、国立西洋美術館の渡邉晋輔先生の解説がありました。
『ラファエロ像の変遷と偶像化への過程』とても興味深く面白かったです。

“ルネサンス芸術の歴史でもっとも影響力のある文書” と言われる芸術家たちの伝記書がジョルジョ・ヴァザーリ『美術家列伝』(1550年、第二版1568年)。
(↑ そういえば、作品解説にときどき名前が出てきます。)
そこでの記述が「ラファエロ作品と同じくらいの影響力を持つことになった」そうです。

ヴァザーリは「ラファエロは中庸を心がけ、さまざまな画家から優れた点を選び取って自らの様式を完成させた」と記し、ラファエロの顰(ひそみ)に倣う(ならう)よう画家たちを促しているそうです。
正しい学習方法と大いなる辛苦の積み重ねによって普遍的な様式を得るという最善の結果を得たラファエロには、画家の手本としての性格が強く表れている
というのですね。
「画家の手本としてのラファエロ像はこうして確立し、またラファエロは崇拝の対象とすらなってい」きました(渡邉先生)。

“さまざまな画家から優れた点を選び取っ” たラファエロの描く、調和の取れた優雅な作品は大衆に親しみを持って受け入れられました。大多数の教化を目的としていたカトリック教会が、このわかりやすいラファエロの宗教画を賞揚したのも頷けます。
イタリア芸術に憧れるフランスをはじめとする欧州のアカデミーも自分たちの芸術の目標としてきたのです。
ラファエロ作品は古典絵画の最高峰!であり、ラファエロの人間性そのものを誰もが見本とすべきなのである!、と祭り上げられたのですね。

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もう少し “ラファエロ らしさ” の正体が知りたくなったので図書館に行きます。

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仕事が休みになるのを待って図書館に行ってきたので投稿が遅くなりました💦。
そこで見つけたのが1975年に発行された新潮美術文庫『RAFFAELLO』。45年も前の書籍です。

最近は画家本人についての新しい情報や、作品の科学分析による新発見が出てくるため、古い文献の内容はそのまま受け取ることができなくなっています。
かといって最新の情報ばかり追っていると、表面的な理解はできても なかなか腑に落ちないことが多いので、古い論文を読むのは楽しいものです。情報社会に生きる私にとっての新しい発見は、古い書物の中にあったりするのです。

『RAFFAELLO』の中で見つけたのが若桑みどり先生のラファエロ評です。

いまでは、誰がラファエロに目をとめるであろうか。16世紀から19世紀まで、人がもし良い趣味をもっていると言われたければラファエロを誉めなければならなかったのに、いまではそれが逆になった。かつて私がラファエロを好きだと言ったとき、人々は私を「満月と赤いばらとラファエロの好きな」あまり上等ではない好みの人間、ときめてしまった。若い芸術家たちにとっては、ミケランジェロは依然として生きているのに、ラファエロは、アカデミーで数百年間の崇拝に耐えていればいただけ、いまでは、蝋人形のように血の気さえも気味わるい、創造力の死のように思われている。

うわーっ、そうなの⁈ 
これが半世紀ほど前の 一般的な(芸術界での一般的な)受け止め方なのかどうかわかりませんが、そんなにラファエロの評価は地に落ちていたのでしょうか。
何だかショックを受けました。
ラファエロの作品はわかりやすく大衆受けするがために、現代においては通俗的に映ってしまうのかも知れません。

その反面なるほど、と。
今まで私がよく理解できなかった「ラファエル前派」の主張って、こういう感覚に通じるものがあるのだなぁ、とスッと腑に落ちました。

ラファエロの倫理的な高さ、その品位を彼らの芸術の目標に据えてきた。そのため、19世紀の終わりに、“良き趣味” の総崩れが始まったとき、美の万神殿(パンテオン)にまつまれていた大理石仕立てのラファエロ像も海中に沈んでしまうことになった。

ラファエロが確立した古典主義的な理想美を技術の頂点と考えたアカデミーに、若い芸術家たちが縛られて来たのだとしたら、そりゃあ反発したくなりますね。
そして若桑先生はこう続けます。

もしも人が、300年の間彼にかぶせてきた不当な形容詞 “神のごとき” をとりのぞいてしまうなら、彼はふたたび海底から浮かび上がってきて、はるかに欠点の多い、はるかに人間らしい姿をして造形の園を歩きまわるのを見ることができるであろう。

勝手に “神のごとき” 存在であると偶像化して、勝手に “海底” に沈めたのは後世の我々ではないですか?

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ここで私のラファエロ観を…。
と思っていたのですが、今日たまたま立ち寄った古本屋さんで 何とヴァザーリ『ルネサンス画人伝』を見つけてしまいました❗️

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何とタイムリーなことでしょう!
ヴァザーリの原典から15人だけを選んで完訳した1982年発行の一冊。新品同様に状態が良いのに1500円とはお買い得!!
これは買わずにおれません。
という訳で、続きはヴァザーリが書いた<ラファエルロ>を読んでから投稿することにします。

<終わり>

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