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<テート美術館展> “光” と 鑑賞論

 “光” を感じてこよう!と臨んだ、<テート美術館展 〜 LIGHT 光 〜>
(国立新美術館にて2023年10月2日(月)まで開催中)

とてもとても楽しむことができました。

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展示室に入って最初に展示されている宗教画に少したじろいだのですが、壁にあるメッセージボードを読んで「なるほど」と。

ユダヤ教とキリスト教の信仰では、神は最初に光を創造したと伝えられています

会場のメッセージボードより抜粋

ふと、今年2月に鑑賞した<ハイドン 『天地創造』>を思い出しました。
[第一日]
  はじめに神は天と地をつくられた。
  「光あれ」と命じて光を呼び、光と闇をお分けになった。
静かなコンサート会場にいきなり響き渡るオーケストラの演奏。混沌とした世界に突然 “光” が生まれました。
“光” は善、真実、純粋そして神の力、苦難における希望の表現。そして “光” によって “闇” も生まれたのです。

展示会場で少し違和感を覚えた宗教画、ジョージ・リッチモンド『光の創造』は、“光” をテーマにする展示会のスタートにふさわしいのですね。

左)ジョージ・リッチモンド『光の創造』1826年
右)ウィリアム・ブレイク『アダムを裁く神』1795年

そして掲げられたメッセージボードのタイトルは、
“宗教的な主題を光と闇によって表現した18世紀末のイギリスの画家たち”
とあります。
そうか。今日はイギリスのテート美術館所蔵作品の展示会でした。
“光” という広く漠然としたテーマに “イギリス” というキーワードをインプットして自分の思考のスウィッチを切り替えます。
そうすることで、いつも少々たじろいでしまうウィリアム・ブレイクの強烈な作品とも落ち着いて対峙たいじできたのです。

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少し進むと…。実は展示会場に足を踏み入れた瞬間に視界に入り 気になって仕方なかったウィリアム・ターナーの作品といよいよ対面です。
隣に掲げられたメッセージボードの短い文章に目が止まりました。

イギリスで「光の画家」と呼ばれたターナーは、自然現象を捉える新しい手法、および光の明るさと儚さを表現
ドイツの作家ゲーテの『色彩論』から影響を受けたターナーは、直観的かつ科学的なアプローチから作品を制作しました

会場のメッセージボードより抜粋

文豪ゲーテの『色彩論』⁈。もしかしたらターナー作品を読み解く大きなヒントになるかもしれません。
その場でネット検索 → ざっくり概要をつかんで解釈すると、

全ての「色彩」の生成には “光” と “闇” の相互作用が必要なのであり、“闇” は単なる光の欠如ではない
色彩は “光” の「行為」=生けるものである。色彩は単なる主観でも単なる客観でもなく、人間の眼の感覚と、生ける “光” の共同作業によって生成するものである
(注:自分の都合の良い部分だけを勝手に解釈しています)

素敵ですね。たとえ科学的には正しくないのだとしても、とても詩的でロマン溢れる表現です。なにか啓示を受けたような気がしました。

この『色彩論』に影響を受けたというターナーの作品を読み解くと、

つかの間に変化する大気の効果を捉えるために、寒色と暖色、そして 光と闇 を対比し、それは相対する「感情」を想像させるものとしても表現されている

会場のメッセージボードより抜粋
いずれもジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
左)『湖に沈む夕日』1840年頃
右)『光と色彩(ゲーテの理論)ー大洪水の翌朝ー創世記を書くモーセ』1843年出品

となるのですね。なるほど。。。

ターナーはゲーテの『色彩論』を
 全ての存在を “光” と “闇” に溶け込ませて描くことで己の生命と感情を表現することができる
と解釈して作品を制作したに違いない!と、展示会場で一人で盛り上がっておりました。
まだまだ距離はありますが、うまく言葉で表現できなかったターナー作品に一歩近づけた気がするのです。
見逃せませんね、メッセージボード。

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ターナーと同時代に活躍したコンスタブルの捉えた “光” も見逃せません。

ジョン・コンスタブル『ハリッジ灯台』1820年出品?

今までコンスタブルの作品で “光” を意識したことはありませんでした。それほどまでに当たり前に存在する “光” は、我々の目の前にある日常の景色の中にありました。
空を覆う雲がカンヴァス手前の海面と陸地に影を落としています。その影が際立たせているのが、陽光を受ける灯台と奥に広がる白を基調とした海面。

コンスタブルの “光” を感じてわかったのは、彼の丁寧な筆づかいでした。
筆が極端に遅かったと言われるコンスタブルは、ゆっくりと静かに色を重ねることで、我々が当たり前に目にしている “光” を、当たり前に描くことに注力したのかも知れません。
これまでコンスタブル作品の良さに気づけていなかったのですが、これからは “光” と “影” に注目です!

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そして、展示室で息をのんだ作品がこちら。

ジョン・ブレット『ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡』1871年

光源である太陽は見えていないのに、空を見上げると眩しくて思わず目を細めてしまいました。
陽光がスポットライトのように いく筋にも広がり、世界中を照らしています。これは、神によって創られたあの “光” ですね。
そしてフワフワ浮かぶ雲が、光の道筋を作ると共にまだらの影も作り出しているのです。

一面に広がる色彩豊かな海。画面手前では穏やかな波が繊細にゆらゆら揺れ、その奥に目をやると、眩しい光を受けた海面に光の粒が白く点描でのせられているではありませんか。面白い!

さらに興味深いことに、横幅2mを超える作品は 鑑賞者が移動して視点を変えると “光” の表情も変わるのです。ほら。

右から観る『ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡』

光の広がり、海の表情…。もしかしたら観る角度でなく、実際に作品自体が刻々と変化しているのではないかしら?と、展示会場をウロウロして何度もこの作品の前に戻って鑑賞しました。画像ではうまく伝わらないのが残念です。

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ジョン・ブレットの作品から圧倒的な “光” を全身で感じ、そのすぐ隣に並んでいた作品にまたまた息をのみました。ホイッスラー!

ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー
『ペールオレンジと緑の黄昏ーバルパライソ』1866年

この抑えたフレスコ壁画のような質感!たまりません。
画面を横切る筆あとは漂う “光” を表現しています。どこかから「差し込む」のではなく「降りそそぐ」のでも「照らされる」わけでもない “光”。
それはきっと 空が持つ “光”、海が蓄えている “光“ であり、そんな内から発せられる静かな “光” をじわーっと感じることができるのです。

これを描いた頃、ホイッスラーは私生活でも制作においても行き詰まりを感じ悩んでいたと言います。この作品対して「色彩の見事な諧調による彼独自の作風を確立するには、その後数年を要した」との評もあったのですが、そんなことは微塵も感じさせない(私には感じることができない)ほど色合いが美しい。。。
水色、紫、白、灰色、青、緑。最後に重ねたであろう題名の「ペール淡いオレンジ」が全体に統一感と透明感を与えているような気がします。

ジョン・ブレットとホイッスラーの並び、秀逸(個人的意見)です。

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このまま気になる作品 ひとつ一つにコメントしていきたいのですが、投稿が長くなってしまうので駆け足で進むことにします。

アルマン・ギヨマン『モレ=シュル=ロワン』1902年

パッと目に入った瞬間に強烈に惹きつけられたのは、私が「明るい紫」と「緑」(補色)の組み合わせを心地よく感じるからだと思います。
8回開催された[印象派展]のうち6回参加したギヨマンが、晩年の作品で使用したというこの鮮やかな色遣いが、アンリ・マティスなど【フォーヴィスム】の画家らの先駆となったというのも納得です。
ふと、2022年 <スイス プチ・パレ美術館展>で観た【フォーヴィスム】のアンリ・マンギャンの紫を思い出しました。

参考)アンリ・マンギャン『ヴィルフランシュの道』1913年
※ 今回は展示されていません

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よくわからないのですが、とても眩しい “光” を感じたのがこちら。

ブリジット・ライリー『ナタラージャ』1993年

題名のナタラージャとは、ヒンドゥー教の神話で「舞踏の王」を意味するシヴァ神(=複数の腕を持つ宇宙の踊り手)のことだそうです。
“光” が踊っている!と思って観ると、楽しくなってきました。
今月のiphoneのロック画面は『ナタラージャ』に決定!

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展示スペースに造られた静かな空間に、それはありました。

ペー・ホワイト『ぶら下がったかけら』2004年

宙に漂う小さくてカラフルな楕円形の紙と、それが床に落とす影。
『ぶら下がったかけら』これは何でしょう?
スクリーン印刷された紙片かけらを吊り下げている482本の糸を辿って天井を見上げると、規則正しく真っ直ぐ張られた糸はまるでピアノの弦緊張感を保ちつつ息を潜めているようです。

「葉が揺れ動いたり、鳥たちが興奮したりする秩序のない光景を ストップモーションで捉えたような作品」を制作しよう思った(ペー・ホワイト氏)。

確かに 葉や鳥をイメージする紙片かけらは、まるでその周囲に空気すら漂っていないようにじっと止まっています。
しかし、不思議と脳内にイメージされるのは激しい動き。
葉は風に吹かれてヒラヒラ揺れ動き、鳥たちは今まさに飛び立たんと羽ばたいているのです。ピアノからは華やかなメロディが聞こえてきました。
静なる作品から →「動」をイメージする。面白いですね。

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一方、展示室最後のスペースに展示されたこちらの作品。

オラファー・エリアソン『星くずの素粒子』2014年

吊り下げられた半透明の作品が回転して、ミラーボールのように輝いています。壁や天井、床に映し出される光は絶え間なく移動しています。

さまざまな形・明るさの違う光の結晶が空間に漂っているさまを『星くずの素粒子』と名付けたオラファー・エリアソン。

ふむふむ。
キラキラ、はらはら、そして ゆらゆら。
目を閉じても 星くずたちが漂っている気配を追っていけるのですが、全身で強く感じるのは絶対的な静けさです。
動きのある作品から →「静」をイメージする。
不思議な世界に酔いしれました。

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<テート美術館展 〜 LIGHT 光 〜>。
「光の画家」であるターナーを通して知ったゲーテ『色彩論』を自己流に変換して、今回の展示作品を鑑賞してきました。

ゲーテ『色彩論』のエッセンス(再登場)は、
◯ 全ての「色彩」の生成には “光” と “闇” の相互作用が必要なのであり、“闇” は単なる光の欠如ではない
色彩は “光” の「行為」=生けるものである。色彩は単なる主観でも単なる客観でもなく、人間の眼の感覚と、生ける “光” の共同作業によって生成するものである
(前述の通り、都合の良い部分だけをピックアップして勝手に解釈しています)

今回、私が意識した『芸術鑑賞論』(ゲーテ風)は、

◯ 多くの芸術作品の制作過程で “光” と “影”、“動” と “静” の相互作用が意識されている。
 “影” は “光” を前提とするものではなく “静” は単なる “動” の欠如ではない
◯ 芸術作品の中で 色彩、光は如何様いかようにも生かされうる。
 そして芸術鑑賞は単なる主観でも単なる客観でもなく、
  作家の表現力
  鑑賞者の「受け入れる気持ち・まなざし」や鑑賞者が持ちうる「想像力の深さや幅」、「感受性の豊かさや温度」
 の共同作業によって成り立つものである

とてもとても楽しむことができました。

<終わり>

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