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画壇の明星(17) アンドレ・ドラン[序章]

古本屋さんで見つけた1951-1954年の月刊誌『国際文化画報』。
特集記事【画壇の明星】で毎月一人ずつピックアップされる世界の巨匠たちは、70年前の日本でどのように紹介されているのでしょうか。

今回は1953年8月号について投稿します。

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まずは見開きページから。
[ルーヴル博物館案内]①。おっ、新しいシリーズですね。

国際文化画報1953年8月号より

記事を要約するとこんな感じです。

世界各国文化人の憧れの的、ルーヴル博物館。遠く離れた日本の人々は複製模写によってその偉大な芸術に接するより他に道はないのですが、日本にあるのは極めて実物とかけ離れた粗悪印刷!
しかし本誌は、
巴里ルーヴル美術館で作製した最も原画にちかい最近の図録を入手
して
博物館発行の図録と何等遜色のない特別研究の最高級プロセス印刷
でもって、これから[ルーヴル博物館案内]の連載記事を始めます。

国際文化画報1953年8月号の記事・要約

ほほーーっ。

今回皇太子殿下の同館御訪問を記念して、同館所蔵諸名画のうち特に人々に親しまれたもの数十点を選び、相当長期にわたるこの特別プランは本社が多大の犠牲をはらって皆様に奉仕せんとするものでありますから充分御期待にそい得るものと信じます。(編集部)

国際文化画報1953年8月号の記事より

これぞ『国際文化画報』!という、かなりの自慢と強気な発言に拍手👏を送ります。
そして第一回はジャン=フランソワ・ミレーの『晩鐘』 。

再登場)ジャン=フランソワ・ミレー 『晩鐘』(1857-59年)を掲載した
国際文化画報1953年8月号の記事

2019年 私が実際に観たミレー『晩鐘』は、
一日の仕事の終わりを告げる鐘を合図に、貧しい農民の夫婦が感謝の祈りを捧げる、画面全体が暗くも 厳かな作品でした。
70年前の日本の雑誌に掲載された『晩鐘』の明るい画面は、“原画に近い” とは言えないような。。。
ルーヴル美術館の図録を写真で撮影し、それを雑誌に掲載するに当たり、できるだけ鮮明に細部までわかりやすく“最高級のプロセス” で印刷した…ということでしょうか。

それでも、それでも。
50年前の日本でルーヴル美術館の名画を手に取ることができるなんて、どれほど貴重な体験でしょうか。編集者のおっしゃる通り!
また、記事の右下には、当時ルーヴル美術館を訪れて『晩鐘』をご覧になっている皇太子殿下(現在の上皇さま)のお写真が掲載されています。当時の読者は、「皇太子殿下が巴里ルーヴル美術館でご鑑賞になったのと同じ作品が見られる!」というだけでも大きな喜びだったと思います。

次回から紹介されていく名画がとても楽しみな特集です!。

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[皇太子殿下 巴里へ]

パリを訪れた当時の皇太子殿下(現在の上皇さま)の記事が続いています。

国際文化画報1953年8月号

エリザベス女王の戴冠式にご出席されてイギリス→フランスをご訪問された皇太子殿下(現在の上皇さま)。ルーヴル美術館で名品の数々をご覧になり、ソルボンヌ大学、仏連合議会をご訪問されたり、ヴェルサイユ宮殿をご見学になったり…とてもお忙しい日程をお過ごしだったことでしょう。
1953年(昭和28年)当時19歳の皇太子殿下(現在の上皇さま)は、どんな思いでルーヴル美術館を観てまわられたのでしょうか。『ミロのヴィーナス』と視線を合わせるお姿から、とても真摯なお人柄が見て取れます。

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[人跡未踏の世界の屋根 遂に征服さる]

人類が初めて世界最高峰のエベレスト登頂に成功したのがこの年(1953年5月29日)、ヒラリーとノルゲイらのニュージーランドとチベット隊によるのですね。記事には、それまでに「別世界との接点、エベレスト」に挑戦して命を落としたり消息を絶った登山隊について書かれています。

記事、左下の二枚の写真にご注目ください!。
実は1953年より29年前の1924年に、エベレスト登頂の偉業を成し遂げていたかもしれない⁈ とされるイギリスの山岳隊員、アービンとマロリーが写っています。
頂上付近で消息を絶った彼らは経験も豊富で、エベレストの初登頂を果たした後、下山げざん中に消息を絶った可能性が高いというのです。もしそれが証明できれば歴史は書き換えられるのだ!と、秘密を解く鍵であるアービンの遺体や彼の携行していた小型カメラを探すためにエベレストに登る人達がいる、と以前 読んだことがあります。

私のような登山経験のない素人は、
「たとえアービンのカメラに歴史的瞬間の記念写真が残っていたとしても、生きて下山してこその成功。歴史を書き換える必要はないのでは。。。」
と思うのですが、そんな夢のない現実主義は、ロマンを追い求める山男・山女たちからは煙たがられるに違いありません。

ちなみに日本人が初めてエベレスト登頂を果たしたのは1970年、そして2013年には三浦雄一郎氏が80歳(当時)でエベレストを制覇したのです!。
80歳・・・ロマンがあります、凄すぎます。

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いよいよ本題の【画壇の明星】。
今月号はアンドレ・ドラン(1880-1954年)です。

国際文化画報1953年8月号

実は、アンドレ・ドランはとても気になっている画家。

アンドレ・ドランを我が家の芸術家辞書(=『art 世界の美術』)で引くと、一応・・【フォーヴィスム】に分類されています。

アンドレ・ドランは1898年にアカデミー・カリエールに入学し、そこでまず同級生のアンリ・マティス、ついで列車の中でモーリス・ド・ヴラマンクに出会い(中略)一緒に絵を描くことにする。(中略)1905年の夏、ドランはマティスとともに絵を描くためにコリウールにおもむき、そこでフォーヴィスムの作風が生まれた。

『art 世界の美術』より

しかしアンドレ・ドランの作風は生涯 変化し続けるのです。
【フォーヴィスム】→【セザニスム】→【キュビスム】→【古典回帰】。
そのため、いろいろな美術展において展示される彼の作品は、多種多様であり、展示場所もさまざま。
ある時はセザンヌの隣、ある時はアンリ・マティスの近く、またある時はジョルジュ・ブラックの前に・・・。
そして展示会で予期せず出会うアンドレ・ドランの作品は、展示会の「主役」ではないけれど、胸の奥にキュンとくる私好みの作品ばかりなのです。

これまで観たアンドレ・ドランの作品の一部

名だたる巨匠たちの、巨匠らしい作品もいいのですが、
そんな巨匠たちの作品に大きな影響を受け、自分の表現を見つけようともがき苦しんでいる画家たちの作品が大好きな私にとって、ドランはとても興味深い作家、いつかきちんと資料を読んでみたい!と思っていました。
【画壇の明星】で取り上げてくれるこの機会を待っていました!。

と。
少し長い投稿になりそうなので、アンドレ・ドラン[本編]については次回 投稿することにします。

<終わり>

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