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わたしの代表作〜ヴラマンクと高階先生

絵画鑑賞を初めて はや6年近く。
わくわく、ドキドキ、きゅんッ。
ぞわぞわ、ジーーン、うるうる。
ふむふむ、そうだよね、そうなの⁈、もっと知りたい!
自分の中の感性が刺激されまくる快感=これがハマる、ということなのでしょう。

絵画鑑賞。
単なる余暇を楽しむ対象としてだけで終わらせたくない!。この先に何があるのかは わからないのですが、自分の中のゴールに向かって進んで行きたいのです。

先日のニュースで羽生善治棋士が藤井聡太六冠の強さについて「読みの深さ、発想の広さ」と語っていました。
“読みの深さ、発想の広さ”
メモしておきます。目指すゴールのイメージを固めていく日々であります。

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ただ、根っからの勉強嫌い、面倒くさがり屋、そして飽き性が作動して、一つのことを突き詰める努力をせずに、別の楽しみに次々と目を奪われてしまう為体ていたらく

例えば。。。
前々回の投稿でヴラマンクの作品について知りたい!と思って古本屋さんで図録を購入したのですが、裏表紙に載っていたヴラマンクの遺言状に感激して立ち止まってしまいました。

2008年<没後50年 モーリス・ドヴラマンク展>図録

遺言状を何度も読んで、彼のすべてを知ったつもりになって満足。最初の意気込みはどこへやら、まだ1ページも始まっていないぞーーーっ!。
せっかく入手した図録もパラパラ見ただけで放置しています。ひどい話(汗)。

「ヴラマンクってどんな作品を描くの?」
と質問されたら
私「・・・。」
うまく言葉にできないどころか、自分の中で確固たるものが何もないのです。

それだけではありません。私が絵画鑑賞にハマっていることを知っている友人からよく受ける質問が、
「画家の中で誰が一番好き?」
私「・・・。」
私は、誰が一番好きなのでしょうか???

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そんな私が尊敬して止まないのが、高階秀爾先生。
古本屋さんで高階先生の著書を見つけるたびにせっせと購入しています。

1932年お生まれの91歳。
東京大学卒業後 “世界美術を自分の眼で確かめるため” にフランスに渡り、現地で西洋美術についての学びを深められます。

1951-1953年の雑誌『国際文化画報』の美術記事についてnoteに投稿している私は、当時の日本人が西洋美術をどのように捉えていたのか、少しだけ感じ取っているつもりです。
「絵画作品を表現する語彙の何とも乏しく未熟なことか!」と 偉そうにも微笑ましく思っているわけです。
「伝統的で独自の芸術を生み出してきた歴史はあれど、美術「鑑賞」を楽しむ文化は国民には根付いていなかったことが伺える」と また偉そうに思っています。

そんな時代から数多くの美術論、美術評を語ってこられた高階先生。
パソコンや画像データはもちろんありません。写真や美術本の入手も困難な時代に、現地の美術館へ足を運んで作品に触れ、外国語の資料から画家や作品についての情報を集め、ご自身の理解と考察を深め、そしてその感想や批評をご自身の言葉で紡いでいく。。。
何とも何とも、ただただ拍手を送るしかないのです。

一方で、現代に生きる私はiPadの画像データを次々に見比べながら、ちまたに溢れるさまざまな美術解説書を開き、美術史家の先生の豊かな語彙、フレーズから自分にピッタリくる言葉を選んで繋ぎ合わせることができるのです。
自分の中できっちり消化させず、誰かの真似っこをしているから全く身についていないのかも知れませんね。

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例えば、高階先生は著書『近代絵画史(下)』の中でヴラマンクについて次のように述べています。

彼は、堂々たる体躯たいくと激しい性格の持ち主で、若い頃は競輪の選手であり、ボートの選手としても名を馳せたスポーツマンであった。文字どおり野獣のような強烈なエネルギーを身うちにひそませたヴラマンクは、そのエネルギーをカンヴァスの上に放出するためのみ画家になったかのような人であった。事実、彼自身もそのことを認めて、次のように語っている。
「絵画は、私の内部から悪いものをしぼり出す腫瘍のようなものだ。絵画の才がなかったなら、私は悪い方向に走ってしまっただろう・・・。社会的なコンテキストのなかではただ爆弾を投げることによってのみ達成できるようなことを、私は、チューブからひねり出したままの純粋な色彩によって、芸術、ことに絵画の世界で表現しようと努めたのだ・・・」
 たしかに、ヴラマンクは、絵画によって何よりもまず「自己」を表現しようとした。絵画は、彼にとっては、ひとつの秩序ある自律的世界というよりも、彼を陶酔させるスピード感や彼の愛好したヴァイオリン演奏と同じように、生命表現の手段であった。彼は、マティスのように絵画のために生涯を捧げたのではなくて、生きるために絵画を選んだのである。

高階秀爾先生『近代絵画史(下)』より

“一つの秩序ある自律的世界というより”、
“スピード感や…演奏と同じように、生命表現の手段”、
“生きるために絵画を選んだ”。
この表現!
音楽一家に生まれ、競輪やオートレースの選手としても名を馳せたヴラマンク。彼にとって絵画とはどのようなものであったのか。高階先生のフレーズを読むだけで、ヴラマンクの人生をぎゅっと凝縮して理解できます。

ヴラマンク “作品” についての記述にも痺れます。

激しい原色の乱舞のなかでさえ洗練された調和の感覚を失わなかった多くのフランスのフォーヴの画家たちのなかで、ヴラマンクだけが粗野なまでの色彩の不協和音と誇張された醜怪な表情によってドイツ表現主義の画家に近いものを感じさせるのも、決して不思議ではない。それは、彼のなかを流れるフランドルの血以上に、彼の個人的な奔放な性格のゆえであり、またアカデミックな権威を故意に無視しようとする彼の反抗的意志に由来するものであった。

高階秀爾先生『近代絵画史(下)』より

“粗野なまでの色彩の不協和音と誇張された醜怪な表現” 。
ヴラマンクについてのメモに【フォーヴィスム】と簡単にひと括りにしている私はお恥ずかしい限り。
こんな風に画家の個性を表現できる人は高階先生しかいないのではないかしら。

そして、極め付きはこの部分。ココ、個人的に大好きです。

 しかし、ほとんど独学であっただけに、ヴラマンクには、容易に他人の影響を受けやすい一面もあった。それが最も顕著にみられるのは、1907年のセザンヌの作品との出会いである。この時期を境目として、彼の作品は激しく爆発するような原色の輝きを失い、沈んだ青、または茶褐色を基調とする構成的な方向に向かうようになる。もちろん、その後の作品でも、たとえば風景に見られるスピード感の表現とか、青いバックのなかから浮かび上がってくる花の鮮やかな色彩などにかつての「フォーヴ」の面影は生き続けているが、画面全体に炸裂する原色のなまなましさは、ついに戻ってはこなかったのである。

“影響を受けやすい”、
“ついに戻ってはこなかった”。
高階先生は画家の個性、個々の作品の特質を述べるための何千もの言葉をお持ちで、それを的確に使い分けることができるのではないかしら✨。

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私が画家や絵画作品について感想を述べるとき、いつも同じようなフレーズ、お決まりの称賛の言葉しか出てきません。
どうして進歩がないのかなぁ?と振り返ってみると・・・。

“巨匠” と呼ばれている → 素晴らしい業績を残した人物
価値ある作品として現代まで大切に保存されている → 素晴らしい作品である証拠。
であれば、鑑賞者である私はその素晴らしい部分を感じて称賛することが正しい鑑賞方法である!とどこかで決めつけていたのかもしれません。

そういえば、最近私が目にする美術評は<美術展>に関係するものが多いため、宣伝のために、画家の人生をドラマティックに仕立て上げ、見どころ=作品賛辞に走りがちです。
確かに「今回は、“画面全体に炸裂する原色のなまなましさは、ついに戻ってはこなかった” 作品を展示しています」という美術展に2,000円以上のお金を出そうと思わないかもしれませんものね。

しかし考えてみたら。。。
イタリア・ルネサンス時代の大変貴重な資料となっているジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝』。
事実の信憑性に怪しい部分がある、と言われている現在もなお大変面白い読み物として興味深いのは、自身も芸術家であるヴァザーリがはっきり好き嫌いを述べ、疑問に思ったことをバッサリ切り落としているから。
「この人のことがあまり好きではなかったんだなぁ」とか
「どれだけ褒めたら気がすむのーーーっ!」とか
すぐにわかります(笑)。面白いのです。

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そうだ!。
高階先生のヴラマンク評を読んで大切なことを教えてもらいました。

私は教育者でもなければ、美術に関するプロでもありません。本を出版して広く世間様せけんさまに文章を読んでもらう立場にもありません。読んでいる人 全員の同意や共感を求める必要はないのです。
であるならば、画家の偉業だけに注目して感心したり、作品の優れた部分を探して褒めるばかりではなく、好き嫌いをはっきり述べて良いのですね!。
これまで負の感情を抑えすぎて、絵画「鑑賞」における私の個性を失いかけていました。

いかん、いかん。
私はわたし。
わたしが一番楽しめる「鑑賞」方法を求めていくことにします。

もちろん、大切にする一つのキーワードは、
“読みの深さ、発想の広さ”
ですね。高階先生、羽生棋士!

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高階先生は著書『誰も知らない「名画の見方」』で、巨匠たちの絵画を鑑賞する「見方」を提案してくれています(以下、私が抜粋と要約をしています)。

画家の「代表作」はその画家の美点が集約された形で表されているが、
それはあくまでも他人の評価に基づくものであって画家自身が決めたものではない。
また「代表作」とは、わずかな偶然や時代の好みで、大きく変化することもある。

確かに他人の評価を参考にすることも大切だ。
しかし、それではその画家の一面を知ったにすぎない。
何よりまず自分の目で作品を見て「自分にとっての代表作」を見つけるつもりで鑑賞してみてはいかがだろう

『誰も知らない「名画の見方」』より抜粋して要約

高階秀爾先生。
「わたしにとっての代表作」を見つけるつもりで鑑賞していきます!

<終わり>

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