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画壇の明星(22)②・ピサロらしさの発見

古本屋さんで見つけた1954年2月号『国際文化画報』。
前回は、特集記事[ルーヴル博物館案内]について投稿したので、今回は本題の[画壇の明星]です。

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特集[画壇の明星]、今回はフランスで活躍した【印象派】【新印象主義】のカミーユ・ピサロ(1830-1903年)です。

『国際文化画報』1954年2月号の記事より

70年前『国際文化画報』は、ピサロ作品をこんな風に紹介しています。

ピサロの絵は、その技法上の激しい主張にもかかわらず、静かな牧歌的なものです。やがて、印象派が生み出した点描法を発展し、独自な技巧で、外光の表現に一生面をひらきました。

1954年2月号『国際文化画報』記事より

おそらく翻訳の問題と、70年前は西洋美術の作品を上手く伝える日本語の成熟が足りなかったせいでしょう、「技法上の激しい主張」「一生面をひらく」というのが、どういうことを指しているのかよくわからないのです。
しかし、そうそう、そうなのです。
ピサロ作品の特徴を伝えるのって、語彙ごいつたない私にとっても難しいのです。

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モネらしさ、セザンヌらしさ、ゴッホらしさはわかるけど “ピサロらしさ” がわからない・・・とピサロに関する資料を読んでnoteに投稿したことがあります。

このときも、ピサロらしい[作品]について何かを理解できたわけではなく、
「これからもっと作品を見て、ピサロらしさがわかるようになりたい!」
と記事を終えています。

しかし、ピサロという[人物]が【印象主義】【新印象主義】【ポスト印象主義】において果たした役割の重要性は、誰もが認めるものです。

出会った人々の人間の独創性を誰よりも理解し尊重し、生涯を通じてその人々を励まし続けたのである。
(中略)
1872年から1881年の間にセザンヌと一緒に仕事をしたこと、1879年以降ドガと共に版画を制作し、また1879年から1884年にかけてゴーガンを支援したこと、さらに1886年から1890年にかけてスーラシニャックあるいはアイエと共に新印象主義の中心にいたことなどは、この芸術家の驚くべき好奇心の強さと、出会った人それぞれの人間性と、芸術家としての潜在能力を理解できる若々しさを示している。

『カミーユ・ピサロとオワーズ川流域の画家たち』クリストフ・デュヴィヴィエ氏

そうなのです!。
まだ自らの表現方法に辿り着いていなかったセザンヌゴーガンを開眼させ、画商テオの兄であるゴッホにガシェ医師を紹介するなど支援。
8回続いた<印象派展>にただ一人全回参加し、展示会をめぐるドガ VS. ルノワールモネらの対立の仲裁に入り・・・。
26歳のスーラの点描主義に感銘し、教えを請うことになるのはピサロ54歳の時でした。
2024年を生きる私が知る【印象派】【新印象派】【ポスト印象派】の成り立ちと発展は、ピサロの存在なしにはあり得なかった!と言っても過言ではありません。

そして「出会った人々の人間の独創性を誰よりも理解し尊重し」「驚くべき好奇心の強さと」「若々しさを示している」という部分は、ぜひ見習いたいものです。

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ピサロが多くの後輩画家に影響を与えたことは、日本で開催される多くの<美術展>でピサロ作品に会える所以でもあります。

私が2020年にピサロについて記事を書いた時から4年の月日が流れました。
あれ以降出会ったピサロ作品は、一例をあげるだけで、
◉ 2021年<ゴッホ展〜響きあう魂 ヘレーネとフィンセント〉
『2月、日の出、バザンクール』1893年(画像・下)。

『2月、日の出、バザンクール』1893年


◉ 2021年〈印象派・光の系譜展〉
『豊作』1893年、『朝、陽光の効果、エラニー』1899年、『エラニーの日没』1890年(画像・下)。

『エラニーの日没』1890年

◉ 2024年1月<印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館展>
『ルーアンのラクロワ島』1883年(画像・下)。

『ルーアンのラクロワ島』1883年

やさしい。やさしいのです。
やさしいがゆえに それぞれの美術展で “最も印象に残った作品” という訳ではない。また、好きなピサロ作品は多いのですが “大好きな画家!” という訳でもないのが正直なところです。

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ピサロが影響を与えたのは、後輩の画家だけではありません。
2012年に開催された<カミーユ・ピサロ展>の図録(←古本屋さんで購入)によると、小説家・梶井基次郎(1901-1932年)がピサロの絵画に魅了されていたそうです。

25歳の梶井基次郎が東海道線の車窓から見た景色を、知人に宛てた手紙の中でこんな風に書いています。

日が登ると梨畑です、ピサロ
じつピサロです。緑葉のなかに薄く赤らんだ緑がまじり、「林檎畑」の筆触が直ぐ浮かんで来ます。

『カミーユ・ピサロー「影」へのまなざし』有木宏ニ氏

梶井基次郎の脳裏にどの作品が浮かんだのかは不明なのですが、ピサロが林檎りんご畑を描いた作品の一つを、私も実際に見たことがあります。
本格的に点描手法をスタートさせた頃の作品がこちら。

カミーユ・ピサロ『りんご採り』1886年

2019年1月久し振りに訪れた大原美術館で「小さな点で描いた作品は色が鮮やかで綺麗だなぁ」と思ったのを覚えています。

いま画像で見ると、ほぼ正方形のカンヴァスの大半を‘影’が覆っています。
しかしピサロが取り入れた点描技法によって、りんごと同じ赤色が地面や女性の肌にも散りばめられているため、全体的に色鮮やかな印象を受けるのですね。
そして少し高い位置に視点を置いているせいでしょうか、周囲の状況や空の様子はほとんど描かれていません。
それなのに、目を閉じて ‘ピサロが描いたりんご畑’ を思い浮かべようとすると、美しい青空の下に広がる長閑のどかで広大なりんご畑が脳裏に浮かぶのですから不思議なものです。

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ピサロが【印象主義】の手法ではなく【新印象主義】の手法を用いて『りんご採り』を描いたのは1886年。
少し時間を戻しましょう。

1874年に開催された いわゆる第一回〈印象派展〉。
【印象派】の画家たちが、受けた印象感覚のままに描き出した景色は、やがて歴史を動かす新しい芸術の流れとなっていくのですが、当時は非難と嘲笑の的でした。しかし10年を超える<印象派展>を通して、新しい絵画表現は少しずつ定着し理解者も増えていくのです。
と同時に<印象派展>に参加した【印象派】と呼ばれる画家の一人一人が 【印象主義】を越える、また新たな試みを模索していくことになるのですね。

8回全ての<印象派展>に参加したピサロも、
筆触分割の手法を用いて、移ろう光を自らの感覚に頼って描く【印象主義】を突き詰めていくと、形態や深みが描けない!
と悩みます(←前々回投稿したルノワールも同じ壁にぶつかりました!)。

そこに現れたのが30歳近くも年下のスーラ描く点描手法。
カンヴァスに純色の小さな点を並べ、視覚混合の理論(鑑賞する人の網膜上で色彩が混ざる)によって、光と色の効果を最大限表現することができると考えたのが点描手法=【新印象主義】です。

“感覚”に頼る【印象主義】とは異なり“理論的・科学的”に積み上げていく手法に活路を見出せるかもしれない!とピサロは【新印象主義】に惹かれて採用しました。
そのピサロが反対を押し切ってスーラやシニャックの部屋を設けて展示したのが1886年第八回(最後の)<印象派展>。
ピサロ『りんご採り』は、スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』と同じ部屋に展示されたのです。

左)ジョルジュ・スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』1884-1886年
右)カミーユ・ピサロ『りんご採り』1886年

ほーーーっ。
同じ手法でも両者から受ける印象は全く異なります。

私にとってスーラの描く点描絵画(画像・左)は、別次元、別の惑星の世界を描いた作品。スーラ星に住む世界には空気はなく、スーラ星人達には永遠のときが流れているのです。

どの色をどこに配置するのか・・・色彩の美しさ・明るさを理論的・科学に裏付けられた【新印象主義】を採用すると、他の画家が描いた作品も、スーラほど極端でなくとも異次元の世界のような絵画になるんだろうなぁ、と思っていました。

左)ジョルジュ・スーラ『サーカス』1890年
右)ポール・シニャック『Au temps d'harmonie』(調和の時間)1893-1895年

もしかしたら点描主義を採用して描く世界を再現するのは、優秀な画家ではなく[AI]かも知れません。「スーラの点描画法で!」と注文したら、スーラが目指した世界を見事に再現してくれそうです。

しかしピサロがカンヴァスに乗せる点描は、現実の農村風景を描き出しています。そこには穏やかで長閑のどかな時間が流れているのです。

左)ピサロ『リンゴの収穫、エラニー』1888年
右)ピサロ『部屋の窓からの眺め、エラニー』1888年

そういえばピサロは、モネやルノワールが一時期ブルジョワジーの遊興を描いていた時でさえ、常に農村、農夫・農婦や長閑な風景を描いていたような気がします。
ピサロが描きたいのは「絵画」ではなく、彼ら、彼女ら、そしてその景色なのですね。

しかし1891年スーラが早逝し、ピサロは【新印象主義】の点描画法を放棄して、【印象主義】の様式に回帰することになります。

「4年間新印象派の理論で描いてみたが私は止めることにした。もはや自身を新印象派とみなしていない。この方法では自身の感覚に素直になることができず、結局、生命感や動きを与えることができない自然の変化に富んだ効果に忠実でない自分のデッサンに個性を与えることができない、などなどから、私は新印象派を断念しなければならなかった」。

ピサロの手紙より

自身の感覚に素直に」「生命感や動き」「自然の変化に富んだ効果」。
それがピサロが求めたものなのですね。

おーーーっ。
手法としての点描技法を完全に自分のものとして採り入れることができなかった【新印象主義】のピサロ作品から、“ピサロらしさ” を少しだけ見つけたような気がします。
70年前の雑誌、恐るべし!と一人で興奮しております。

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今回私が感じた “ピサロらしさ” について、ぴったりの表現を見つけました!

ピサロが自分よりずっと若い画家たちの革新的な試みにつねに暖かい理解を示し、積極的な支持を惜しまなかったことは、ほとんど感嘆に値する。それは、ピサロの生まれつき謙虚な人柄のせいでもあったが、同時に、理論的なものに強い好奇心を示す彼の知的な性格のしからしむるところでもあった。
確かに、ピサロは、スーラほど徹底した理論家となるためにはあまりに感覚的であったが、また他方、モネのように徹底して感覚に身を委ねるには、またあまりにも理知的だったのである。ピサロのこのような性格が、彼の作品を時に中途半端な、個性の弱いものにしていることは否定できないが、しかし、多彩な色彩を縦横に駆使して、画面全体を華やかに構成する彼の技法は、やはり独特な魅力を持っている。

高階秀爾先生『近代絵画史(上)』

私が感じて伝えたいことを、いつも的確に表現してくださる高階秀爾先生、ありがとうございます!。“ピサロらしさ” を表現するフレーズとしてメモさせていただきます。

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最後に補足です。
梶井基次郎『檸檬』の草稿には次のような一節があるそうです。

一顆の檸檬を買い来て、
そをもてあそぶ男あり、
[・・・]ひとり 唯独り 我が立つは丸善の洋書棚の前、
セザンヌではなく、レンブラントはもち去られ、
マチス 心をよろこばさず

梶井基次郎『檸檬』の草稿より

影の中に潜む「男」を喜ばせるものは、マチスの色彩ではなかった。それは、レブラントの闇であり、セザンヌの明晰である。幾何学的形態を探求する中の晩年のセザンヌは、「控えめにして偉大なピサロが、彼のアナーキスムでもって裏付けてみせたように、[自然の]研究は、わたしたちの視界を矯正する」と断言した。

『カミーユ・ピサロー「影」へのまなざし』有木宏ニ氏

難しい話はよくわからないのですが、自分の行ったことがある場所、画家の名前や絵画作品が出てくる小説を見つけると、それだけでドキドキするのです。

お恥ずかしながら梶井基次郎『檸檬』、知識として知っているだけで読んだことがありません。
ちょっと手にしてみたくなりました。

<終わり>

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