終わってほしくないアイオワ日記。

日記を書き始めてから、独り言が多いことに気がついた。

日記に何を書けばいいだろうと考えて過ごしながら、日本語のフレーズをあれこれトライアンドエラーしている(ほとんどエラー)。まだまだ、その日の出来事と自分の考えがちょうどいい具合に交差するポイントが見つからないでいる。

日記で言えば、今読んでいる滝口悠生さんの『やがて忘れる過程の途中』がとても面白い。アメリカのアイオワ大学で毎年行われているインターナショナル・ライティング・プログラムに去年の夏、日本の作家として招待され、他の国の作家たちと過ごした10週間の記録。夢中に読んでしまう。

アイオワと言えば「アメリカのど田舎」というイメージだが(それは間違っていない)、アイオワ大学で1936年に始まったIowa Writers' Workshopは全米の物書き、または物書きを目指す人で知らない人はいない。ほんのひと握りの人しか選ばれず、有名な作家を多く輩出している大学院は、全米一のライティングの「エリートコース」なのだ。

毎年同じキャンパスで行われる「インターナショナル・ライティング・プログラム」は世界中の「well-established writers」、つまり実績のあるライターが集まる、一読者からすると贅沢すぎてその場にいるだけでいい、朗読を聞いたり話が聞けるだけでいいと祈るようなプログラムなのだ。

それでも、滝口悠生さんの『やがて忘れる過程の途中』を読んでいると、登場人物がみな素晴らしい作家であることを時々忘れてしまう。それほどユーモラスに、ひとりひとりの濃いキャラ、はっきりと現れる国民性、バラバラな英語の発音や様々なレベルの「自由度」が度々行われるダンスパーティーのように賑やかに、時にカオスに映る。

でもそれぞれの作家が「自分の言葉」で表現した時、静寂が訪れる。

時間を共にするインドネシアの作家(普段はそこまで英語が通じ合っていないと言う)の文章を読んだ時のこと。

ふだんから私はわりと簡単に泣くが、ここでは自分でも不思議なくらいほかのライターの人生に素朴に反応してしまう。ここに来るまで全然知らなかったひとに、これまで生きてきた時間があり、何事か考えたり志したりして、勉強をし、そのひとがものを書くひとになった、そういう時間と歴史があったことを知って、感動する。(p. 61)

滝口さんの言葉が通じないことへの不安や心細さが伝わると同時に、そこから広がる「書いてきた」人の人生への想像力に心動かされる。

日記に残す意味があるのは、こういう瞬間なのだと思う。普段見えていないものが見える瞬間。

アイオワ日記、終わってほしくない。


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