短編小説『悪魔のようなあいつ』

今日は日蝕で、太陽と地球の間に月が入り込み太陽が見えなくなる。
男はそれをこの目で見ようと窓辺に座った。
近くのハンガーラックにかけてあるベージュのハットをかぶったとき、ブランデーグラスの中の氷が音を立てた。
それに反応するかのように女が目を覚まし、ベッドから男のほうに手を伸ばした。
「お前も見ろよ」
「何を?」
「日蝕」
女はつまらなさそうに手を引っ込めてシーツで顔まで覆った。
シーツからはみ出た脚は細く、ほどよく筋肉がついている。
親指の赤いマニキュアが少しはがれていた。
男は近くに置いてあったギターを手に取り、狂ったチューニングのまま弾き始めた。
「時の過ぎゆくままにこの身をまかせ…」
「その曲きらい」
男はギターの手を止め、タバコに火をつけた。
そしてすぐにまたギターを弾き始めた。
「もう私いやよ、生きてる事さえいや」
女はシーツに顔を隠したまま言った。
「もうつかれたのよ、何もかも。こんな生活もいや。何もかもいや」
「なら死ぬか。死になよ、俺もすぐにいくから」
「なんでよ。一緒に死んでくれないの?」
「俺はやり残した事があるからさ」
「何?」
「日蝕を見るんだよ」
「ふんっ」
女は男に背中を向けた。
電話が鳴った。
男は「はい、はい」とだけ答え、電話を切った。
「誰から?」
「オーナーさ」
「何て?」
「別に」
男はハットをかぶり直し、床に落ちているGパンを履いた。
女はむくりと起き上がり、長い髪をかき上げた。そこにある顔は少女のままだ。
「犯人が見つかったって。あの三億円事件の」
「あら、今更?」
「うん、でも犯人はもう死んでたらしい。間抜けだね」
男はタバコを窓の外に放り投げた。
「もったいないなぁ」
「もう吸えないよ」
「違うわ、三億円よ。それだけあったら自由に暮らせたはずなのに」
「そうかな、案外お金に縛られちまうんじゃないかな」
「でも欲しいわ、三億円。ねぇ私欲しい」
女は子どものように脚をバタバタさせた。
「ねぇ、三億円あったらどうする?」
男は答えなかった。
「お金があれば、心の傷もなおせるかしら」
女は小指に食い込む指輪をじっと見つめた。
「きっとなおせないわね、だって目に見えないもの」
気付いたら外は激しい雨が降っていた。
男がベッドに移動すると、女はその背中にくっついた。
「妹さん、脚が悪いんだってね」
「いや、手術して治ったんだ。来週退院するよ」
「そう」
男は鼻歌を歌い出した。
「誰の歌?」
「俺だよ。俺がいま作ったんだ。タイトルは『ポールシー・ハーパー・ジュニア』」
「何それ、変な名前」
女は嘲笑い、ベッドのすぐ脇にあるピアノの前に座った。
そして片手で『星に願いを』を弾いた。
「この曲私が作ったのよ」
女はふふっと笑い、ゆっくりとため息をついた。
「ねぇ、いつになったらしあわせになれる?」
「すでにしあわせだろ」
「どこが?どこがどうしあわせって言うの?金も無いし、あんたにさえ愛してもらえないじゃない」
女は泣きながら男に向かって叫んだ。
そのときピアノを叩いたせいで不協和音が部屋中に響き渡った。
男はゆっくりと立ち上がり、泣き続ける女をぎゅっと抱きしめた。
「堕ちてくのもしあわせだよ、きっと。二人なら」
女は泣きながら男の背中に腕をまわした。
「つめたい」
窓の外は雨が降り続き、二人の鼓動を消してしまった。


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一九七五年九月二六日
三億円事件の時効まであと七十五日
可門良 死亡
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