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夢の引越し便 #4-④

視覚と聴覚を失った僕は、虚無と焦燥を感じていた。それらは今まで体験してきたものとは比べ物にならないものだった。虚無感は風船のように無を漂う孤独で、焦燥は見識のない異質な生物に突然変異させられたような特別な不安を抱かせるものだった。僕は僕では無くなっていることを認識し、何を目的に存在しているのかを感じ取れなくなっていた。
凍るような寒さを感じているにも関わらず、汗は止まらなかった。膿を潰したような嫌な匂いがする汗だ。冷や汗の類なのだが、からだの皮膚のすべてから噴き出しており、僕の体温を恐ろしい勢いで奪っているようだった。それに抗うように動悸が激しくなり、肩で息をする必要があった。
まずは落ち着かなくては。そう考えて僕は呼吸を整えようと目をつぶり、拳を軽く握り、首の力を抜ききって俯き、少しずつ田舎の風景を膨らませた。
僕が育った景色と体感した音を回想した。生い茂った広葉樹からこぼれる緑色の柔らかな光。南から吹く風に力強くそよぐ葉音。藻をたっぷり含んだ深緑色の水面からは水鳥の着水の波紋が見え、何かを探し求める鳴声が聴こえる。僕はゆっくりとそこに空間を創り出し、僕の周囲360度にジグソーパズルを埋めるように、白い空きスペースに形のあるもの、彩のあるもの、そして音を伴うものを当てはめていった。

そこは僕の記憶が持ちうる限りの図書館と公園になっていた。良く晴れた盛夏のそれだった。
僕は公園のベンチに座っていた。
さらに僕はそれらの景色に配置されたパーツごとにもっと細かいディテールを創り上げる。
図書館の大きな窓ガラスにある幼児の手あと。上下3メートルを超すブラインドからぶら下がる弛んだクリーム色の紐。斜めに傾きながら借りられていった隣人を待ち詫びる文芸書棚。緑色のフェルト製の掲示板に画鋲で貼られた読み聞かせ教室の告知チラシ。無機質に業務をこなす司書がうっすらと流れるクラシック音楽に合わせてスマートに打ち込むタイピング音。新聞を読み込む老人の銀縁の眼鏡まで。僕はベンチから見える図書館の光景とそこに聴こえるであろう音をゆっくりと創り上げた。

その後、僕がいる公園の周囲も創り上げていった。
自転車置き場の屋根は濃い灰色の溝が深いトタンで、新しいのに雨どいにはすでに穴が開いていて、草や石や空き缶が挟まっている。自転車置き場から図書館とは逆側に向かう狭い泥の道を進むと公衆トイレがあって、暗く、湿気があり、便器には黄ばみがひどく、蜘蛛の巣が張り巡らされている。
雨を待ち続けて疲れ果てた向日葵の花壇は周囲に太陽を遮るものがない。尖った砂利ばかりで舗装されていない遊歩道を進むと象の形をしたトンネルと滑り台が付いた子供用遊具があり、象の鼻の滑り台からは陽炎が出ていた。ボロボロのベンチは何度もペンキが塗りなおされていたが、毛虫が這う石テーブルとイスは30年前に一度だけ塗られたような色あせたピンクとイエローだった。木製のアーチ型の橋は小学生3人が同時に渡ると軋みだし、苦しそうな音をたてる。2つの橋が架けられた中央の休憩小屋の床は吐き捨てられた唾だらけで、ファーストフードの容器と紙袋でいっぱいになったゴミ箱の周りをハエが数匹飛び回っていた。
よくある公共施設と言ってしまえばそれまでだが、古いながらも人間を受け入れる意欲をもった佇まいだった。緑と水と歩道とベンチと風を感じることができる吹き抜けの休憩小屋。居心地は悪くなかった。

「ねぇ。」
ヒトミの声だった。僕は顔を上げると、隣のベンチに制服を着たヒトミが座っていた。
さらにヒトミの横には制服姿の僕が座っており、ヒトミと話をしている「僕」を、僕が見ているのだということに気づいた。
僕の高校時代の欠落した記憶であることが分かった。

「ん?」

遠くを眺める僕に対して、ヒトミは僕をしっかりと見つめ話し始めた。
「大学へ行って、どんなことをするの?サークルは?ゼミは?アルバイトは?どこに住むの?家で料理は作るの?休みは何をするの?どんな趣味を持つの?彼女は作るの?」
「質問責めはやめてよ。そんなに一気に答えられない。」
「溶け合うってわかる?」
「え?とけあう?」
「私ね。とにかく人間が嫌いなの。何を考えているのか、全部を表に出さずにほんの僅かな言葉だけで相手とやりとりするじゃない?そんなことで分かり合えるとは思えないの。結局溶け合わないし、溶け合おうともしない。それじゃあ何も生まれないの。」
「それは理解できるけど、割り切ったら平気なんじゃないの?コミュニケーションってそもそもそういうものでしょ?」
「家族でも、恋人でも、自分の子供でも、同じこと言える?この状況では言うべきではないとか、慮れとか。」
「意思疎通のために必要最低限の言葉を選んで、タイミングを掴んで、相手のリアクションを見ながら話すのが会話でしょ? 躊躇わずにすべての人間が語り始めたら主義主張を押し通す混沌が生まれるよ。」
「私が言いたいのはそんな次元の話じゃないのよ。あなたと話しているの。まだ分からない?私があなたのことを理解できないでいるのよ。」
「うん。」
「うん。と言ってもあなたは全然変わらない気がするの。何を考えているかを伝えてくれることが少ないし、あなたが何を望んでいるかが分からないの。我慢していることがあるんじゃないかとか、本当は違うことを考えながら私の意見を聞いてくれているんじゃないかとか、私の置かれている環境を知って、あなたはうんざりしているんじゃないかとか、2年という年の差はいずれ老いて埋まるものなのかとか。あなたは寡黙に私と時間を過ごしていて楽しいの?満足なの?」

僕はしばらく間をおいた。考えているふりをしているのがヒトミには伝わっているようだった。僕は言葉を無理やり掴みながら話していた。
「君と一緒で、俺も人間が苦手だよ。自分に自信がないから主張することなんてほとんど考えていない。人に嫌われることが嫌いだから、人を好きになることなんて早々ないし、人に好かれていると感じたら相応の関係値を築く。頼られたら頼られた分だけ目標に近づけるように頑張るし、相手が何を考えているかは自分なりに想像を膨らませる。できる限り人の心の奥に触れずに生きていきたいと思っている。それでも君を好きになったことには自信を持っているし、君にとても興味を持っている。聞きたいことは山ほどあるし、共有したいことだってたくさんある。一緒に行きたいところもあるしイメージは毎日している。でも今話してすぐに出来ないことや、言ってしまって君の気持ちが悪いほうに向かってしまったらと思うと、それらは伝えるべきではないと感じてしまう。俺はお互いが溶け合うなんてことは絶対にないと思ってるし、必要な時に自然と言葉になって出てくるものだと思っている。だから、もし君が、今の俺が言葉足らずだと感じるんだとしたら、間違っていないし、俺が変わるしかないんだろうね。」

「あなたは変わらないわ。」

「うん。変わらないと思う。」

「でも今、私はあなたのことが好きなの。人間が大嫌いで、溶け合うことが嫌いで、語ることが好きなくせにどう思われるかを気にかけているあなたを私が溶け合って変えたいの。」

「それはそんなに急ぐことなのかな?」

「急いだほうが良いと思うよ。」

「ねぇ、ヒトミ。」

「なに?」

「得意ではないんだよ。言いたいことが上手く言えないんだ。言葉のイメージがフワッと浮かぶんだけど、発する言葉は自分がイメージする言葉じゃないんだ。とても嫌になる。いつも足りない。たまに逆になる。だからなるべく言葉は少なく、わかりやすく、差し障りなく、言い逃れできる、そんな言葉を選び始めたんだ。」

「とてもよくわかるよ。だからこそ何度も何度も伝えて、伝えなおして、また伝えたらいいんだよ。あの時はこう言ったけど
今の言葉が正しいと思うって言えばいいじゃない?私はそうして欲しい。自然に出てくる言葉に悩まないでよ。出てきた言葉はあなたの言葉だし、創り上げた言葉なんて全然嬉しくない。」

「嫌なんだよ。完璧主義でもなんでもない。ただ、ただ嫌なんだ。もっとまともな、もっと正確な、、、いや、、、。」

言葉を失ってしまっていた。
ヒトミは僕のことをじっと見つめていた。僕は見つめ返すことなく橋や木々や水鳥を焦点も合わすことなく順に眺めていた。それでもヒトミは首をかしげて僕の次の言葉を待ってくれていたが、僕から言葉は出てこなかった。

「うん。わかった。待つよ。あなたが納得する言葉で話してくれることを。でも覚えておいて。こうしてる間もあなたと私の大切な一緒の時間がどんどん流れていく。それは私にとって、とても悲しいことなのよ。」

僕はめまいを感じた。
薄く塗った糊が粘着力を失って剥がれていく壁紙のように、創り上げた風景は裏面の白みを見せながら次々と消えていった。
やがて訪れたのは、無音の暗闇と強烈な眠気だった。僕は脈が落ち着いていることを確かめ、ゆっくりと眠気に全身を預けていった。

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