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夢の引越し便 #3-⑤

僕とヒトミはその日の帰り道、もう一か所寄り道をし、初めてキスをした。
場所は陸上競技場の観覧スタンドに入るための階段脇だった。あたりは暗く、小雨が降りだしていて、運動をしている人間はだれもいなかった。街灯がうっすらと差し込んでいて、近くのジュースの自動販売機がウーとかゴーッとかガーッといった騒音を2分おきくらいに変化させて存在を主張していた。
僕たちはヘッドフォンステレオでイヤホンを一つずつ分けてビートルズを聞いていた。アルバムは『ラバーソウル』だった。ヒトミが『ミッシェル』を聞きたいと言い出して頭出しをした。彼女は曲に合わせてハミングをし始め、僕はイヤホンを反対の耳につけなおして、彼女のハミングを聞き取れるようにした。曲が終わると同時にヒトミは話し始めた。

「ねぇ、私、ジョンとポールだったら絶対にジョンのほうが好きなんだけれど、好きな曲は全部ポールの曲なの。『ミッシェル』も『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』も。」
「俺はジョンが好きで、ジョンの曲が好きだよ、『イン・マイ・ライフ』とか『アクロス・ザ・ユニバース』とか。」
「そういうの聞くと、自信を無くしちゃうの。辻褄合わないっていうのかな?本当に好きかと言われたら好きなのに、歪んでいるみたい。前期後期の好みだと前期が好きなのに一番大好きな曲は『イエローサブマリン』なの。おかしいのかな?」
「そんなことないんじゃない?ビートルズが大好きでもジョンだけが素晴らしいとも思わないし。ジョージだって良い曲を書いたよ。なのにパティ・ボイドを諦めたことはさっぱり俺には理解できないけどね。」
「ねぇ、聞いて。あなたには私の全部を知ってもらってもなお、好きでいて欲しいと思うの。」
「どうしたの?」
「私ね、本当の名前は違うの。」
「ん?」
「本当の名前はもっと長くて、ミドルネームがあるの。」
「それってどういう意味?」
「両親がカトリックで、物心がついたころ洗礼を受けたの。だから私も教徒なの。」
「うん。」
「平日はおじさんの家にいるんだけど、土曜日に親が迎えに来て、日曜日は礼拝に行くの。神様にお祈りをするんだよ。」

「うん。それで?」
「驚かないの?私が神様信じてること。周りとは全然違うのよ。」
「宗教とか宗派とか、まだよくわからないんだ。爺ちゃんは最近念仏を唱え始めたけど、両親は何もしていないし、墓を受け継ぐことは何となく理解しているけど、押し付けられるものという感じもしなくて。」
「そっか。あなたのお父さん怒るかもね。私がカトリックだったら。」
「え?」
「それにね、カトリックは結婚するまで純潔を守らなくちゃいけないの。」
「じゅんけつって何?」
「知らないの?処女を守るのよ。」
「そんなに厳しいの?」
「うん。厳しいよ。ねぇ、この話を聞いて、私とキスしたいと思う?」
「え?」
「あなたはずっと私とキスしたいと思ってた。」
「なぜそう決めつける?」
「普通の人はこの話を聞いて引くと思うよ。」
「質問の答えになってないよ。それに俺は普通の人間なのだろうか?」
「いいよ。キスして。」

僕たちは肩を並べて競技場のトラックを向いていたのだが、僕がゆっくりと向きを変えてヒトミの正面に回ってキスをした。僕のイヤホンはキスをして顔を離すときに外れてしまった。
ヒトミは笑って『アイム・ルッキング・スルー・ユー』をハミングしながら言った。
「悪魔ね。悪い男。」
僕はその場から動けなくなった。腰に物凄い太い楔を打たれたような激痛を感じた。
目をつぶり彼女の唇の柔らかさを思い返して忘れまいとした。
気付かないうちにヒトミがそっとキスをしてきた。今度は長いキスだった。
「君が悪魔なんだよ。」
ヒトミはイヤホンの一つを僕の耳に入れ、『イン・マイ・ライフ』を聞かせてくれた。
そして反対の耳に顔を近づけて囁いた。
「知ってるよ。この曲のオルガンは悪魔も認めるほど素敵よね。」

僕たちはアルバム『ラバーソウル』を聴き終えるまでの間、抱きしめたり、キスをしたり、笑ったり、鼻をつまんだり、頬を撫でたり、目尻の皺を指でなぞったりして過ごした。

雨が少しずつ強くなっていたことにはまったく気づかなかった。
自転車でずぶ濡れになって帰った後も、僕は何か特別大きなものに包み込まれた感触のまま、ただ茫然と天井を眺めヒトミを想い続けた。

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