見出し画像

夢の引越し便 #3-⑥

それから3か月ほど、僕とヒトミは土日を除いた放課後の全てをほぼ一緒に過ごした。図書館で勉強をしたり、公園でシオリを含めた友人たちと無駄話をしたり、手紙のやりとりをしたり、たまに僕の自宅に訪れ、音楽を聴いたり、雑誌を読んだり、一緒に勉強したりした。それぞれ自宅に帰った後もこっそり家を抜け出して近所で落ち合って散歩をしたこともあった。土日は自宅から電話のやりとりもした。楽しい話題もあったが別れ話をすることも多かった。それらは手紙での認識違いが多く、その時、僕は伝える力が足りないと謝った。もしくは来たるべく翌年の卒業後に離れ離れになることへの憂いだったため、僕は未来の明るい楽しい話題を提供することによってヒトミを慰めたり、夢を共有して絆を深めたりしていた。
また、僕たちはキスより先に進むことはなかった。ヒトミがそれ以上求めていないと感じていたし、僕自身、それ以上進ませるイメージを持ち合わせていなかった。
ある時、夢の中でヒトミと抱き合ってその流れのままセックスをしたという話しをしたら、ヒトミは笑って言った。
「男って本当にクズよね。」と。
なるほど男は低俗なのだと理解した。
彼女が僕に伝えた「純潔」という貞操を僕は破るつもりはなかったし、このままずっと恋人という関係を続け、それぞれがやりたい職を見つけたうえで一緒になるんだろうと考えていた。

僕は7月に両親を説得し、東京の大学を推薦入試で決め、勉強という束縛から解放されていた。
ごくまれに彼女は僕を礼拝に誘うことがあったが、僕は何かの理由をつけ、やんわりとその誘いを断った。そのたびに彼女は怒ることも無理強いすることもなく綺麗に話題を転換した。
「海外の音楽には宗教が密接に関わってるの。だから詩やメロディに深さや味わいがあるんだってお父さんが言ってたの。家族の絆もそうだけど、神様との関わり合いって大切だと思う。お父さんとお母さんの出会いは教会で二人ともビートルズ好きだったんだって。」
「へぇ。素敵な出会いだね。」
「聴こうよ、『ヘイ・ジュード』。ポールが子どもに贈った曲だよ。」

僕の宗教観は彼女と過ごしても何も変わることはなかった。礼拝に行っても良いと思ったこともあったが、僕が継続的に何かをやり続ける人間でないことは僕自身がよく理解していたので、中途半端な入信はヒトミに失礼だと思ってしばらくは断ることにしていた。

夏休みを目前にして、ヒトミは僕をキャンプに誘ってきた。
「夏休みにビッグイベントのお知らせがあります。いつものメンバーでキャンプです。」
「そんな話あったっけ?」
「だいぶ前からやりたいねって言っていたよ。」
「そうだっけ?」
「うん。8月の最後の土日でお城跡の近くでやろうってなってるんだけど、来れる?」
「俺、夏休みの後半は従妹の家に泊まり込んでバイトすることになってるなぁ。」
「そうなのね。あなたが行かなくても私は行くからね。シオリも来るし。」
「うん。キャンプ、いいね。シオリが一番多く蚊に刺されるよ。きっと。」
「顔赤くしたら蚊は寄ってくるのかな。それ、試してみるね。」

夏休みのある日、ヒトミが泣きながら僕に伝えてきたことがある。それはあまりに抽象的で、僕を批判しているようにも聞こえたし、二人の関係を終わらせたいようにも聞こえた。
「あなたは多分、たくさんの人から頼られる大人になると思う。お願いごとに一生懸命応えるし、きちんとゴールにたどり着く。でもそれは私にとっては悲しいことなの。あなたは人の夢を叶えることはできるけど、人を幸せにできない人なのよ。人と共感しあっても、幸せに辿り着かないのよ。」
「意味が分からない。」
「大学を出たらどんな仕事をするつもり?」
「まだ詳しく決め切れていないけれど、人を感動させる仕事がしたい。」
「私と本当にずっと一緒にいるつもり?」
「そのつもり。」
「そのつもり。」
「なに?」
「不安しかないのよ。あなたはきっと私を幸せにできないの。あなたの心がどこにあるかわからないの。本当に。本当によ。」

困ったことに、このヒトミとの会話の先から記憶が極めて曖昧だ。
いくら辿っても行き止まりになってしまう。
細い細い糸が垂らされていて、手繰っても手繰っても答えを手に入れられない。
結果だけは確かなものとして僕の脳裏にこびり付いて剥がれない。
ヒトミは僕ではなく、僕の友人の子を身籠って、堕胎をした。
僕が行かなかったキャンプでヒトミは僕の普段から一緒に過ごしていた友人と寝ていた。

曖昧なことが幾つもある。
夏休みを終えてからその事実を知るまでどれくらいの時間があったのか。
僕とヒトミがその後、どれくらい顔を合わせていたのか、もしくは合わせていなかったのか。
ヒトミと僕はその時別れていたのか。
僕はヒトミと寝た男を殴った記憶があるのだが、その男はいつから登場して僕たちのグループに入ったのか。その仲間とどんな共通の話題があったのか。事実を聞いたあと、僕はどうしたのか、どのような話をしたのか。どんな結論を見出したのか。

様々な記憶が完全に欠落している。
僕はシオリを通じて、ヒトミは襲われたのではなく、同意のうえでその男と寝たということを知った。周りの仲間たちはその流れを止められなかったのかと聞いたら、とても楽しそうだったという答えが返ってきた。僕は学校を結果的に一週間休み、図書館に行くことをやめた。

その時、冷静さを取り戻すために、初めての経験だからだと常に言い聞かせた。
恋人に裏切られたこと。
身近で新しい命が芽生え、わずかな時間で消えたこと。
なんでも話し合えて、気心知れた仲間を失ったこと。
初めて味わう喪失が重なってしまったから、僕はこんなに混乱しているんだと言い聞かせた。

さらに言い聞かせる。何度も何度も言い聞かせる。

時間をかけて描いた夢があったが忘れてしまったんだ。
神を信じるならば共に信じようと思ったが神がどこにいるか忘れてしまったんだ。
ゆっくりと温もりを身に纏おうと思ったがどうすればいいか忘れてしまったんだ。
誰も知らない彼女の傷を癒やそうと思ったが傷がどこにあるのか忘れてしまったんだ。

忘れてしまうことでぽっかりと心にスペースができるような気がした。
僕は誰からも邪魔されない僕だけが入り込めるスペースを僕の心の中に作った。
暗闇で良かった。何も思い出せない暗闇が心地よかった。

そうして僕は18歳を迎え、高校を卒業して上京した。

応援していただけたらありがたいです! いいね→コメント→サポートと、 心に響く文章が書ける人間になりたいものです…!