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夢の引越し便 #1-②

雲が消えている。
ずっと雲を眺めていたつもりだったのに、いつ空に溶け込んでいったのか分からない。
僕は何か別のことを考えていたのだろうか。僕は大きく息を吸い込み、大学へ行こうと腰を上げようとした。
「ねえ、少しいいかしら?」
それは今までに聞いたこともない声色で僕の耳を、もしくは僕の脳を刺激した。
洋画の日本語吹き替え版を観ていて感じる俳優の口の動きと、聞こえてくる日本語との違和感のようなものに似ていた。ひどく現実離れしていたのだ。
空気を震わせていないようなその声を、僕ははじめ空耳と感じ、ゆっくりと立ち上がりジーンズについた細かい砂を払い落とした。
「ねぇ、聞こえているんでしょ?」
今度は確かに聞こえた。
僕の背後にやっと人の気配というものを感じ取ることができた。
そう、僕に話し掛けているんだ。
僕は振り向きながら他人と接するときの表情を作った。
改めて僕自身が現実離れしていたことに気付きながら。
その女性はにっこりとして僕が振り向くのを待っていてくれた。
僕が振り向かなくてもずっとその場で微笑んでいそうな、とても自己完結的な笑顔だった。
実際に僕が彼女を見つめても、目が合うことが無かった。目が見えないのではないかと惑うくらいにその目は僕を貫き、遠くを見つめている。
恐らく、目の焦点が合わないのだろう。僕は女性の目をじっと見つめ、
「なんでしょう?」とぶっきらぼうに言った。
その女性は少し笑顔を緩め、顔を斜めに傾け僕に軽い会釈をした。
彼女の黒く長い髪がさらっと背中から胸元に移動した。
「ごめんなさい、突然声をかけてしまって。実はちょっと探している場所があって。どうしても見つからないんです。もし知っていたら教えてほしいの。」
「僕もそれほどこの辺りの地理には詳しくないんですけど。どちらへ行かれたいのですか?」
「私の名前はマユミといいます。今日この場所へ引越しをしてきました。以前住んでいたのはここからかなり遠い田舎町です。ここへ来たのは凄く大きな夢があったからなの。でも、その夢が見当たらなくなってしまったのよ!」
「どういうことです?」
まるで名探偵ホームズだ。
「実は引っ越す前に『夢の引越し便』という業者が来てね、私にこう言うの。
『お客様、あなたがお持ちの夢は、ご自分で持って行かれるにはいささか重過ぎますよ。
遠距離なのですから、途中で忘れたり、盗まれてしまっては困りますでしょう?
私どもにその夢を運ばせて下さい。安心してお引越しできますよ。
私共にお任せいただければ、お客様が到着なさるころにはこの夢があなたを迎えてくれますよ。素敵でしょう?』って。
私、その業者に依頼したの。だって夢がとても大きかったから。
預けたままだから、どんな夢だったのかは分からないのだけれど、その時は預けなくてはならないと感じたの。それくらい大きな夢だったのは記憶に残っているわ。それで実際にこっちに来てみたら着いてないのよ。どうしてもその業者を見つけて返してもらわなくちゃ!私がここに来た意味が無くなってしまう。」
僕は途中から口を開けて呆れた顔をして聞いていた。
「夢の引越し便」なんてあり得るわけが無い。このマユミという女性は少し頭のネジが弛んでしまっているんだろう。よくよく彼女の容姿を眺めると、背は高いのだが顔色が悪く、腕は病的に細かった。着ている服は皺が目立ち、何日も同じものを着ているような感じを受けた。
ただ髪の毛だけは綺麗な艶でまっすぐなのがとても印象的だった。
「申し訳無いのですが、僕は『夢の引越し便』という業者の名前は今初めて聞きました。
だから場所も分からない。ごめんなさいね。」
僕は辺り障りの無いように軽く頭を下げ、その場を立ち去ろうとした。
マユミは困った顔を浮かべたが、目の焦点が合っていないためか、僕には諦めたかのように感じられた。僕は土手の上に止めてあるスクーターの所まで行き、ヘルメットを被りエンジンをかけた。
「ねぇ、とても困っているの。お願い、助けて。」
彼女の細い声が聞こえた。とても心に響く声だった。
振り返ると彼女はまだ10メートル程離れたところから僕の方へ歩いてきている途中だった。
なぜ声が聞こえたのだろう。僕はエンジンを切り、ヘルメットを脱いだ。マユミはようやく土手を登りきり、僕の近くまで来てこう言った。
「ねぇ、とても困っているの。お願い、助けて。」
僕は少し混乱しているのだろう。今日は何か特別な日なのだ。諦めよう。
そう思ったら少しは気持ちが落ち着いた。
「分かりました。では、その『夢の引越し便』の電話番号は知りませんか?送るときに預かり伝票とかはもらわなかった?」
少しくらいは彼女に付き合ってあげよう。それが彼女の為になるかどうかは考えないことにして。
「そうなの。今思えば当たり前のことなのに、もらってないのよ。料金も後払いだからって、行き先だけ教えてそれっきり。」
「そうですか、それではあそこに電話ボックスがあるでしょ?あそこに電話帳があるから調べてみるといい。その業者の名前で検索すれば電話番号と住所が分かるから。」
「そうね、その手があったわね。じゃあ一緒に行きましょう。」
「どうしてです?一人で行けませんか?」
「もし住所が分かっても、一人では怖くて取り返しには行けないわ。きっと向こうは責任逃れをすると思うし、うまく言い包められたら私どうしようもなくなってしまう。」
「うーん。」
僕はしばらく考えたが、すぐそこの電話ボックスまで一緒に行って調べてあげることにした。
結局のところ『夢の引越し便』なんて存在しないのだから。そこで一緒に調べさえすればそれで帰れるだろう。
「じゃあ行きましょう、一緒に取り返しに行ってあげますよ!」
「ありがとう、きっとそう言ってくれると思ってたわ。」
僕はスクーターから降り、マユミの前に立ち、足早に30メートル程先の電話ボックスに向かった。土手の上の細い歩行者用道路の道沿いにその電話ボックスはあり、鳩が数十羽その電話ボックスを取り囲むようにちょこちょこと歩き回っていた。
僕が電話ボックスの扉を開けると、鳩はそれを避けるように後ろから来るマユミの方へ移動していった。その光景はまるでマユミが鳩の使い手のようでおかしかった。
マユミは鳩の群れの突進を慌てながら抜け、電話ボックスに辿り着いた。
僕は公衆電話の下の棚に載せられた今まで一度も開かれていないのではと思わせる程綺麗な電話帳を手に取り、「や行」の欄をパラパラと捲り、「ゆめ」で始まるページを見つけ出した。順に指を当て追っていくと、

□飲食店

夢 クリーニング店
夢 理髪店
YUME 仕出し弁当
夢太鼓 和菓子店
夢の森 スナック
夢晴荘  学生寮
湯元〇〇 個人宅

というものだった。

もちろん、彼女が期待するものは掲載されてはいなかった。
「この電話帳には、この地域に在籍していて、電話番号を持っていて、なおかつ電話帳に載せることを希望した個人と業者の電話番号が全部載っています。」
僕は、104の番号案内オペレーターの真似をし、丁寧に、そして自分にも言い聞かせるように言った。
「もちろん知っているわ。」
「載っていないとなると、掲載を希望していないか、電話番号を持っていないか。この地城ではないか、存在していないかのどれかだね?」
「もちろん分かっているわ。」
ふーっと、大きく僕はため息をついた。
「残念。僕がお手伝いできるのはここまでです。」
彼女の目はまた遠くを見ている。それとも僕を見ているのだろうか?
「ねえ、見つける方法はもう無いのかしら。諦めることは私、夢を捨てるってことなのよ!」
マユミは感情的になった。
瞼にたっぷりと涙が溢れ、彼女は泣くまいと空を見上げた。
空を見る彼女の姿は僕の心を揺さぶった。
何もかもを投げ出し、たった1つの何かを懇願する純粋な少女に見えた。
目の焦点などといったことは全く意味をなさず、しっかりと現実感を伴い、そこに存在していた。僕の心を釘付けにして。
彼女の強い意志は僕の心に入り込み、何かに衝突した。
そしてゆっくりとその塊を掻き混ぜて行く。
最初はひどく気持ちが悪かったのだが、次第に温かく、心地よさを感じた。
内面から広がる力を感じ、僕は耐え切れず頭に手を充て、しっかりと目を閉じた。
目を閉じても彼女の姿ははっきりと見て取れ、まだ空を見つめている。
大きく息をする彼女の呼吸とともに僕の心はさらに広がっていく。空に溶け込んでしまうほどに。
しばらくの間ずっと僕は彼女を見つめ、彼女は大きく目を開け空を眺めた。やがて彼女の瞳から涙がこぼれ落ちたとき、僕の心は急激な強さで締め付けられていった。
彼女は空を見上げるのを止め、僕を見つめている。
ふっと彼女の姿が消え、僕は我に返り目を開けた。
なぜか体が熱くなっている。マユミは涙を流して僕の方を見つめていた。
「僕にいったい何ができるだろう?」僕はボソッっと呟いた。
「ごめんね、いやな気持ちにさせてしまって。もういいわ。私。別の場所を探してみる。迷惑をかけてしまったわね。どうもありがとう。」
マユミは目をゆっくりと閉じ、そして、鞄から手帳を取り出すと電話番号を書き、僕に渡した。
「もし、何か思い付いたら、ここに電話をちょうだい。だいたいは家にいるけど、今日みたいに探しに出かけることもあるから、そのときは留守電に。」
「ええ。」
僕はもらった紙を二つに折り ズボンのポケットに入れた。
「じゃあね、今日は本当にどうもありがとう。」
マユミはそのまま土手の細い道を川下の方へ向かって歩いていった。
僕は彼女が去っていくのを見守った。小さくなっていくマユミを見つめながら、空を見上げる彼女の顔を思い浮かべていた。気付くとマユミの姿は見えなくなっていた。

僕は大学へ行った。授業に出たいとは思わなかったのだが、知っている教授や、知人に会うことで何とか現実に戻れるのではないかと思ったからだ。午後からのスペイン語の授業でようやく社会と僕の距離のようなものを掴み取ることができた。教授が笑顔で女生徒にスペインのクリスマスを説明するなか、ほとんどの生徒が居眠りやら落書きやらに勤しんでいた。
僕はひと通りの授業に出席した後、コンビニエンスストアのアルバイトに行き、タ方5時から夜1時まで働き、帰り際にレンタルビデオ店に行き、ゴダールの「勝手にしやがれ」を借りた。
僕なりの現実を確実に取り戻さなくては。そう思った。

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