見出し画像

夢の引越し便 #4-①

多摩川の土手はいつもより冷ややかで、僕はTシャツとジーンズだけで来たことを後悔した。川は昨日まで降り続いた雨の影響でたっぷりと土砂を含み、勢いよく流れていた。風もそれに合わせて急ぎ足で山側から海へ向かって吹いていた。
「お昼までには海に着きたいね。」レジャーに向かう家族のように心地よく進んでいるようだった。

大きくため息をついてみても状況も心境も変わることはなかった。もう、あれから4年も経っている。
僕は自分に言い聞かせた。声に出して言ってみた。「もう4年だよ。」その声はかすれていて、僕の声には聞こえなかった。まるで砂埃と米糠を吸い続けて精米室から出てきた老父のような声だった。
今、ヒトミはいったい何を知りたいんだろう。
頭を打って何を忘れてしまったんだろう。

僕も忘れたい事象を放り投げてきた人間だ。
思い出そうとすると悲しみが溢れてきて、カップからこぼれるコーヒーのように行き場と目的を失い、記憶を広げる真っ白なテーブルを薄茶色に染めていくだけだった。

「さて。」と老父のかすれた声で僕はまた呟いた。
僕は土手に作られたコンクリートの階段から横の草むらに体を放り投げるように寝転んだ。土手はまだ湿り気があり、服には草や土や蟻が貼り付いた。
僕は青空を眺めながらヒトミのクシャっと微笑む顔を浮かべたあと、マユミの空を眺めて涙ぐむ顔にイメージを転換しようとした。それはSF映画のようには上手くいかず、切り替わるまでカラーバーやスノーノイズや意味のない映画のワンシーンが混ざった転換になった。

妄想は続く。
次にマユミに会えたらと考えながら、マユミに質問をする僕をイメージする。

「僕も何かを忘れてしまったよ。」

「それはとても大きな夢だったの。」マユミは僕の話に応えているのかどうかわからなかった。僕は続ける。

「思い出さなくてもいい記憶があっても良いと思わないかい?」

「どうしても思い出さなくちゃならないの。」

「僕はあの時、違うアプローチや意思決定をしなければいけなかったのかな?」

「一緒に探して欲しいのよ」

僕の求める答えなどマユミは答えてはくれない。
僕は何をしたいんだろうと我にかえった。

混乱は収まらなかった。
少なくとも僕がこじ開けられた記憶の扉と悲しみをなんとかしなくてはならない。
恐らく僕はヒトミとマユミに会わなくてはならないんだろう。
会わなくては何も進まないんだろうという思考に切り替えた。僕の感情に関係なく、やらなくてはならないことなのだと言い聞かせた。

僕は自宅に戻り、ヒトミに手紙を書いた。
驚いたこと、忙しくなんてないこと、電話がかかってきた様子はないこと、僕の記憶も欠落していること、都内で会うなら都合をつけられること、気持ちが変わっていて会いたくないなら無理に連絡は不要であることを簡単にまとめ、ヒトミから受け取った手紙に書かれていた住所へ僕の電話番号を添えて投函した。
僕が今もなお、ヒトミから頼られて嬉しい感情を持ったことはあえて書かなかった。今の僕はいささか混乱しているし、もしヒトミも同様に混乱しているのならば、そのような心象を伝えても良い方向には向かうはずがないと考えたからだ。

手紙を書くのはとても久しぶりだった。
それは僕の心を少しばかり安寧にし、大げさに言えば生きた証を残したような気持ちになった。

ヒトミから電話がかかってきたのはそれから3日後だった。ヒトミの声色は4年前とは明らかに異なっており、暗く、そして、か細かった。

「もしもし。久しぶり、それから、ごめんなさい。」


応援していただけたらありがたいです! いいね→コメント→サポートと、 心に響く文章が書ける人間になりたいものです…!