組み込まれている回路と行動力
結局のところ、行動して経験するしかない。
わかっちゃいるけれど、尻込みするし面倒だしとやらない方を選択してきたし、今もそう。
少しくらいは以前よりか経験することを選ぶようになったかな?と振り返ってみたけれど、やっぱりそうでもなかった。
もっと体力があったころは、経験するというハードルが低かったように思う。
臆病で、おそらく社会性に欠けている私だから、若かった頃だって自慢できるような行動をしてきたわけじゃない。それでも今よりは行動範囲も広く、一人で色んなところへ行った。(自分の懐の範囲内で)
思い付きで突発的に。後を考えられずに猛進したり。
そうだ。わたしはずっと「計画的に何かをやる」がまったくできない人だったことを思い出した。
50歳を過ぎて尚、それは直らず、もはやひどくなっているとしか思えない。
つまりは計画的に視野を広く見据えて、積み重ねるということができないから、突発的に行動してしまう。
答えが出ない質問を自分に投げて、悶々と悩む。
答えなどないことで悩むというのは、川に流されていて岸にたどり着けない状態と似ていて、目の前に掴まれそうなものが現れると、咄嗟に手を伸ばす。なんとか掴まろうと必死になる。
突発的な行動は、目の前に現れた掴まれそうなものに手を出すのと同じ。
闇雲であるということ。
こう考えると、行動して経験するというのは、思いついたことをやるのだとしても、ある程は計画的に行動するのがいいのだろうと思った。
けれど、私にはそれができそうにない。
臆病だから、二の足を踏むし、計画というものがとにかく出来ない。
おまけに体力もすっかり落ちていて、それとともに気力も落ちた今、行動して経験するということが、とてつもなく大変なことに思えてしまう。
世の中を生きることに楽しみを感じている人を羨ましく思う。
その感覚が私にはわからないから。
そして、わからないと言おうものなら、それすらも強者は経験あるのみという。
間違っていないと思う。
色んなことを経験するためにここに産まれ落ちたのだろうから。
けれど、誰に伝わらなくてもいいけど、行動できる人間と、その行動するという回路がそもそも組み込まれていない人間がいるんじゃないかと思う。
そうやって逃げる理由ばかり探して、生きることから逃げてるから、自分も他人も大切にできないし、幸せというものを味わえないのか。
こうやって自分を責めていれば、行動しなくていいのだからね。
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