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往復書簡:真城くんへ。

なにか書くことを自分に課したものの、書き続けるのはむずかしい。秋生まれの3人が並んで肉を食らいながら、じゃあお互いに手紙を書くつもりで書いてみましょうかと始めた、これは自主トレです。
4回目の今回は、真城くんへの返信。

やあこんにちは。

真城くんが前回くれた便りの日付を見直してみたら、1月10日と書いてありました。年が明けたころだね。忙しない日々が続いてつい筆が遠のいてしまい、もうしわけなかったです。いやおうなしに春が来て、桜が強迫的に咲いているさまに圧倒されながら、ひさしぶりにお便りします。

真城くんが書いていた、「わかってくれる、わかるはず」の安心感の罠、ほんとうにわたしは何度も何度も嵌っている気がします。いつしかその親しみの感情が煩わしさに変わることを防ぐことができず、心地よい関係性は失われていく。もしかしたら馬鹿正直に向き合いすぎなのかもしれません。

いっぽうで、そんなわたしでも長く続いている友人はいます。そういう人は、たくさん話をして時間をともに過ごし、だいたいどんな人かはわかっても、attractiveな要素が失われることがないように思います。それがなんなのかを突き止めるのは難しいです。「新しい視点をくれる」とか「おもしろい情報を持っている」とか、マーケティング的には説明できないところでもあって、「誘ったらすぱっと都合が合ってスムーズに会える」みたいなリズムの合いかたも大切だし(スケジュールって合わない人とはほんと合わなくてそれだけでもこの人とはずれてんだよなって感じる)、「会うと何かちょっとしたおかしなことが起こる」みたいな偶発性も含めてのような気もします。よく知っている仲ではあるが、ある意味油断できないというか。

そういう付き合いができる人は、ほぼ互いにチューニングして偶然に思えるくらいの精度で合わせることができる者同士でもあるのでしょうし、あとやっぱりほんの少しは、天の采配も味方してると思う。それから、属性があんまりかぶらないこともけっこう大事かも。ある程度の背景を共有しつつ、性別、年代などは異なるほうが、「わかりあう幻想」を信じてしまったがためにいっそうくっきりと見えてくるズレに苛まれることは少ないんじゃないかなと、最近思うようになってきました。「花束みたいな恋をした」の二人のように、読んでる本が同じだとか押井守が神であることを知ってるとか、「同じであること」に価値があると信じきった関係が長くは続かないことは、彼らと同じ道を先に歩いてきたわたしたちは痛いほど知っています。自分とどれだけ同じであるかと互いを見張りつづける必要はないよね、それより一緒に旅を楽しもう。この往復書簡も、そんなふうに続けられたらいいなと思います。

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