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拝啓。ふたりの友人へ。

なにか書くことを自分に課したものの、書き続けるのはむずかしい。秋生まれの3人が並んで肉を食らいながら、じゃあお互いに手紙を書くつもりで書いてみましょうかと始めた、これは自主トレです。初日のテーマは、「他人」。

2021/11/11(木)イロコ一通目

こんにちは。初めてのお手紙を書いているというのに、今日のわたしは午前中からずいぶんイライラしています。まず、ねこ。栄養バランスがとれていてそして美味しくないドライフードを一向に食べず、人間でいったらヤンニョムチキンくらいのレベル感の魅力を放つジャンキーおやつ「いなば焼かつお」を寄越せと、朝の9:30からずううううっと鳴き続けてる奴がいます。うるさい。そしてもう一匹、寒くなってきたからか同居のねこが気に入らないからか、布団や毛布を片端からトイレにしていく奴がいます。執拗すぎる。そして濡れた布団を風呂場や洗面所までおろしてきて放置していく、何ひとつ家事をしようとしない娘や息子がいます。片付けた先から散らかしていく、憎らしい奴ら。でもそれも自分がしつけを怠った結果かと思うと強く言えないと、ため息をついて黙っている自分にも、またイライラします。

先週から今村夏子を乱読しています。映画「花束みたいな恋をした」に出てくるセリフ「今村夏子のピクニックを読んでも何も感じない人間」に果たして自分は当てはまるか否かを確かめるために、『ピクニック』が収録された短編集『こちらあみ子』を読みはじめたんだけど、この表題作があまりもひどくて、わたしの心はズタズタにされました。

あみ子は決定的にひとの気持ちが読み取れず無神経な発言や行動を重ねまくる、いま風にいえばアスペな子どもなんだけど、この小説ではあみ子の絶望的なひととのつながれなさ、を徹底的に、あみ子の目線だけで、容赦なく書き連ねていて、読んでいるこちらとしては、こういう存在に苛立ったり腹を立てたりしてぞんざいに扱った記憶(とくに自分が子どものころ)が微妙に残っているのでそれをまざまざと見せつけられるという逆襲を受け、猛烈に苦しくなってきます。

でもこの小説のおそろしいところはそれだけじゃなくて、絶望的にひととつながれないあみ子の世界は、そのまんま自分の世界と変わらないんじゃないかと思わされるところです。

わたしはひとの気持ちがわからない。周りから見たらそんなふうに見えないかもしれないけど、ほんとうにそうなんです。この世界に自分というものがいるのはわかる。両腕を広げてぐるりと一回転した程度の範囲のものは見える。あとは水の中のようなぼやけた視界の中に何かがゆらゆらしているのがわかる程度。何かの拍子で、向こうからわたしの両腕いっぱいの領地に飛び込んできたものがあれば、やっと関わることができる、そんな感じ。
でも、自分から他者に働きかけるとなると、途端になんにもわからなくなる。自分が一歩踏み出そうが、あるいはやみくもに走り出そうが、見えるものはどこまでいっても自分の両腕の内側のことだけ。自分が何を言って何をしたら、外の世界つまり他者にどんな影響を与えられるのか、皆目わからないんですよね。

『こちらあみ子』を読んで思い至ったのは、おそらく、こういう世界観って、子どものものなんだろうなと。最初は自分だけ。次にケアを与えてくれる親またはそれに準ずるもの。その次に他者がいることに気づき、その次にその他者とは関わりを持てるものだということに気づき、その次に複数の他者とつながりを持てることに気づく。これが社会性の発達の過程であり、そうやって世界は広がっていくけれど、子どもはまだ視野が狭くて、自分と自分を取り囲む世界との距離や、世界の大きさが見えていない。だから自分が投げたボールの強さや飛距離がイメージできなくてどこに飛んでいくのかよくわからないまま放つし、その反応として世界のほうからこちらに飛んできたボールは唐突に自分の目の前に現れるのでびっくりしてしまう。このままでは、世界はこわい。わたしは大人になるにつれて上手になったこともあるのでなんとか生き延びているけど、こと自分からボールを投げることとなると尻込みしてしまいます。

自分からボールを投げてみたらよかったのにとか、やってみないとわからないよとか、ひとは言いますよ。でもわたしには投げてみる勇気が持てなかったし、いまも持てずにいる。なぜみんなはできるんだろう。周りの世界がやさしくてイージーモードから順に成功体験を重ねていくことができたひともいれば、生来の気質によるところもあるのかな。投げてもどうせ返ってこないと思い込んで、だれも何も与えてくれない、といつも怒っているような子どもだったなあ。なぜなんだろう。

こんなふうだから、ひとと関わるとなったとき、精一杯そして唯一とれる戦法としてわたしが編み出したのは、自分はこんな感じなんですけどどうですか、と提示するくらいのものでした。向こうからやってきてくれれば、見せるものはある。そのかわり嘘もつけないし、あざとく振る舞うなどという、ひとに受容されることを前提に自分が思う通りの感情を他人に生じさせる、なんていう高度な技術はとうてい使えない。できもしないことを下手に勇気出してやってみても、いいことあったためしがないしね。

ひとに自分を伝える、届けるって、どうすればいいのかな。ここまで生きてきて、今さらどうすりゃいいのかわからない。とりあえず、娘や息子に家事分担を提案することから始めようかなと思ってますけど。

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友人ふたりのnoteはこちら。




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