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2020.5.12 能動と受動と在宅ビール日和

夜ご飯の焼きそばと餃子を食べるときにあけたビールは食事を終えたあと少し残っていて、飯を食うときに500はダメだとソファに沈みこむようにしてスマホをいじった。焼きそばかビールかわからない満腹感が落ち着いたころに、グラス一杯ぶんのぬるくなったそれに氷をいれて、少し薄くなってから飲み干して外に出た。氷を入れればなんでもうまい。

ビールは飲みたかったけど酔っ払いたくはない問題とそろそろ向き合った方がいい。暇にかまけて昼から飲んで、夕方ごろに昼寝することが当たり前になってきた。
セブンの青いホットコーヒーを買って若林とサトミツのインスタライブを公園で見ている。
22時。今日がまだ5時間ある。

昨日『少女邂逅』を見て、今日は『放課後ソーダ日和』を見た。公開されて2年も経っていることに驚きつつ、18年の末にヨネちゃんが教えてくれていたんだからそれだけ経つわけだと言い聞かせる。
数字を信頼できないと分かった以上、ちょこちょこ記憶を出し入れしないと過去が塊になってのしかかる瞬間がくることが分かった。
脳内検索の結果、数字と生活がぴったし符合するのは2009と64と56と66だった。大学に入ったのが何年で、何年度入社で、とかは一生サラッと出てこない。

ほうほうこれがモトーラか、これが保紫もえかか、ミスIDってやつだなと確認しながら見たのだけど、『放課後ソーダ日和』はもう古くさく感じた。ギオンはカネコアヤノが働いていたんだって、みたいな会話はおそらく大学2年生とかのはず。色のバリエーションが豊富なクリームソーダが売りの喫茶店バイトを三日で辞めたのはいつだったっけ。
『少女邂逅』は映像がすごくよくて、テアトルで見たかった。階段を駆け下りて、自転車に乗って走り出すカットも、電話ボックスから飛び出るところも。

でもそのあとに読み始めた金原ひとみ『アタラクシア』の方がきょうのできごととして印象深い。

zoomで新学期の自己紹介をしなくてはいけないと相談する高校生と電話を繋いだ『空気階段の踊り場』アフタートークにキュンとした。おいしくしてくれとちょける高校生リスナーを可愛いく思った自分が意外だった。従兄弟にあったときにもう緊張しないかもしれない。
でも『ただバカ』のペッパーくんのくだりで声が入った作家の反応にに少し ん?と思った自分が、どちらかというとめんどうな部分が大きくなっているようで苦い。
そういえば、ラジオタイトルで 「○○"が"」というのは珍しいなと気付いた。能動的だ。

若林がインスタライブで中動態について話していたけど、腹が減って渋々松屋の自動扉ボタンを押す絶望感は今も新鮮な気持ちとして残ってる。
中動を理解する過程で、能動だと思っていたことを受動なものだととれば楽になりそうと若林が話していたことが頭に残った。受動の方を楽に捉えることが20代と40代の差なのかもしれない。それか、能動のこと以外を跳ね返したくなるくらい、まだ社会的カツアゲにあってない甘ちゃんなだけか。

文章を打つことが一番自分にあった能動行為だという自覚は随分昔からある。大学受験で小論文を書かされた帰りの電車、無心に文字を打って書いたのは磯野貴理子を使ったネタみたいなブログだったことはよく覚えてる。

だから、(長い目で見れば習慣と言っても差し支えない)これをやるために親指を動かしている時間がある限りはある程度バランスを取っていける予感がある。会ったこともない、文章を通してでしか知らない社会の先輩にあたる人たちの感じからしても、きっとそれは証明されているはずだし。

ソーダ日和とアタラクシア、自分が同じ日に見たこと以外共通点などない。でも、人生の山場はどこにあるんだろうと思う。
田中芽衣が演じた少女のモデルという職業は、アタラクシアの結衣がかつて生業としていた仕事と同じなわけで。無邪気にクリームソーダをすする少女が10年後には不倫でも何かを埋められない生活を送っているのかも知れないと思うと「ここからが山場だ」とテレビを見ながら呟いた『ハーフ・オブ・イット』のお父さんの言葉が思い出された。少し受動。

ちょくちょく区切りの線を引いた方が、数十年の生活は扱いやすいものなんだろうか。西暦、元号、時間、年齢。個人の線において数字なんてなんの意味ももたないんだし。
23時。今日がまだ4時間ある。

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