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走り書くせわしない文章『ゼロ秒思考の途中経過』『ゲームとnoteは基本交わらない』

絶賛ゲームのお祭り期間である猫暮です。急などしゃぶりに来客対応、それから食欲不振の飼い猫ちゃんなどが重なりてんやわんやの日常を過ごしています。楽しい。余計な事が頭をよぎったらすかさずゼロ秒思考のプロセスで紙をぽいぽいと投げ捨てていく。

そういえばちょうど10日前に「1日10メモ」習慣を始めたんですが、さきほど100枚入りのコピー用紙が空になりましたっ!嬉しいね。でも最初の頃はスケッチブックから紙をちぎって書いていたので、実際は10枚以上をかけてるみたい。書けてるみたいっていうのは、書いた枚数は別にカウントしていないから割と曖昧。バババっと連続で書く時もあればゆっくり小分けにする日もある。

ここらへんはもうノリとパッションだし、ゼロ秒思考の本質はとにかく思考のアイドリング状態を減らすことにある。その状態ってバッテリーはあがるしガソリンは消費するにも関わらずまったく前進ができていない。前に進まないと、良くないものがたまっていく。主にストレスだったり、悩みだったり、考えてもどうしようもないことが堂々巡る。

そこを書きだしちゃう。頭がすっきりする。本当にすっきりする。まるで温泉に入った後くらい、というと大げさかもしれないけれど「頭の中から余計なモノがなくなったな」って実感できる。さらに言えば、自分にとって何が「余計」かが判断できているのだ。今必要なものと不要なものを箱に分けて整理されている感じ。

もちろん、これまでだってある程度は無意識にやっていたし、紙に書きだす内容なんて当たりまえのことばっかりだ。「書くまでもない」とバカにしてしまえるくらい気軽なメモ。しかし、それでもカタチになった思考は驚くほどに整理される。知識じゃなくて経験になるって言ったらいいのかな。書くことで実体化する。

たとえば漢字の書き取りノート。最初うっすーいお手本ばかりだった中身が、使い込むほどにクッキリした黒で埋まっていく。虚像だった漢字(笑)がちゃんと自分が使える「漢字」になってる感じだ。漢字。感じ!

あ、元々はゲームの記事の続きでも書こうかと思っていたけれど、気付けばゼロ秒思考の効能について語っている。

というのも、ゲームの話題はどうにもウケが悪すぎる。敬遠?されているのかな。もちろんそういった数字目的で書いているワケじゃないから、取り下げるようなことはしない。

理由はいくつか考えられる。

文学畑の人間、文章が好きな人間はそもそもゲームをやらない。やっていたとしても人口が極端に少ない。可処分時間の使い方がまず違うってポイントがあげられる。ゲームに費やす時間があったら文章や書籍を読むことのほうがはるかに情報の密度を実感できるからだと思う。

私も、正直本のほうが情報の質も密度も高いと思っている。ゲームは余暇で楽しむもの。そしてnoteも余暇で楽しむもの。もちろん仕事に結びつけようとされる方もたくさんいらっしゃるが、どちらにせよ情熱には限りがある。noteにもゲームにも、平等の情熱はささげられない。一方に多く火をくべると一方は鎮火してしまう。両方に対してくべられるマルチタスカーさんもいらっしゃるかもしれないが、猫暮にはなかなか難しい。そういった感じで、時間というリソースを食い合うnoteとゲームは相性が極端に悪いのだと思う。

あと、ゲームしてる側もnote見ないし読まないからね。たとえ両立できていた人がいたとして、全体の1%にも及ばないと思う。ゲームをやっていてシナリオライターの書いた物語に魅了される人は多くいるけれど、モノカキさんを志す人は少ない。

あくまでゲームのシナリオライターだったり、ゲーム制作方面に関する職業に興味を持つ、ってパターンが圧倒的だと思う。どんな道であれ、基本的には真っ直ぐが王道なのだ。猫暮のようにゲームしか知らない人間が突然読書に目覚めたりモノカキにハマるケースはめちゃくちゃレアだと思う。

うーむ。不思議な経歴。だけど書くのすっごい楽しいし、書き始めてから一層ゲームに対する考察も深まってきた。なんか、相乗効果というかシナジーが両方の体験にかかって、どっちも楽しい!って感じです。ありがたいな。

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