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強烈なるパンチラインにひどい読書説がハッと目覚める瞬間

後天的に読書にハマった猫暮。
文章を読むって刺激的。

自分の中に存在しえなかった価値観に触れて、おもいきり自分の背中をバンッと叩かれる気分。

なにか物事を始める時、はじめたてが一番輝かしく映る。

何もかもが新鮮で、何もかもが煌めていて「はじめて」に圧倒され続けて余計なことを考えている暇もない。ずっと没頭状態。

「没入」といったほうがいいかもしれない。頭でものを考えるよりも身体がその世界に一体化してしまう気分に近い。自分ごと「世界に入る」。だから没入だ。
「没頭」だと、あくまで理性的な部分のみでとどめているような表現に感じる。

猫暮は極端にハマると衣食住すらもどうでもよくなってしまう。食べることを忘れ、寝ることを忘れて、って感じでとても良くないハマり方をするし、大抵の場合ただただコンテンツとして消費するだけになる。典型的な消費者である。

動画投稿者として活動を残したりとか、レビューを書いたりってこともなく、「自分の満足を追及するけど、跡地には何も残らない」。猫暮はそんな無用の用みたいな人間なのだ。

これに関しては、もったいないなぁと焦燥感を抱きつつも「あ~これこそが真の没入だよなぁ」なんて思っている。マネタイズとか知名度獲得とか仕事への昇華とか、そういう邪念が一切なくただただ不眠不休不食で打ち込むのだから、多分純度が高い。ただ、経験として自分の中に残るけどカタチにはなっていないから、はたからみれば虚無と同じ。天下一品の自己満足です。え、ちょっと悲しい。


そんな読書週間も半年を越えて、ようやく初心者卒業くらいの遍歴は積めたのかと自負している猫暮。それでも、世の読書家と比べればまだまだひよっこで、しかしひよっこなりに世界が輝いて見えているのもまた事実。


世で名作と呼ばれるような文章に触れた時、心が打ち震えるほど鳴動することもある。思わず叫んでしまうくらい感情がほとばしったり、読書感想文をババッと認めて感情を発露させないと有り余ったパワーが行き場を失いそうになったり。心を震わす文章の巧みさやそこ潜んだ著者の人生観に、息をのむ。

はじめこそ、単純に読書慣れしてないだけだからこんな状態になるのかな、と思った。でもどうやらそうではないらしい。猫暮がまったくの読書初心者だから感じている新鮮さとは別の概念な気がしている。

おそらく私自身が超絶没入型で、寝食を忘れるレベルでのめり込めるから感じることができる領域で、とっても身勝手なタレント(才能)なのだ。ただし、平穏に生活していくうえでは重荷だし強烈なハンデキャップになる類のモノだけど…。

たぶん、世の読書家が思う読書慣れは、猫暮には永遠にこないんじゃないかと、ちょっと不安を感じている。

多くの著書を読み、知識と世界を蓄積してきた人々は、どこかで手慣れてしまっている空気を醸し出す。慣れと、法則と、共通事項をうまい具合に結び付けて、生命活動に直結するような没入は起こさないのだと思う。ある意味で、極度に触れない、鵜呑みにしないように自己を保つ、そんな言外の努力を感じる。

残した理性はアカデミズムに割いたり、仕事に割いてマネタイズにつなげたり。ゆとりや余裕は、半端な没入を証明しているようにもちょっと猫暮思うのです。


いうなれば「自分の領域には踏み込ませない」というカッコたる意思と不屈を感じてしまう。もしかしたら「あ~はいはい、またこのパターンね」って感じで、一定のクリシェに飽き飽きしてしまったのかもしれない。

目が肥えちゃったともいえる。でもそれって自分の中に「定例のパターン」を確立してしまっているから、相手の領域に踏み入らなくなっただけなんじゃないかって。いや、もっと言ってしまえば相手の領域に「踏み入れなく」なってしまった

自己を持ってしまったが故に、もう絶対に手放せなくなってしまったんじゃないかって。ロマンチックな言い方をすれば、大切なものが増えすぎちゃったんだなって。


没入とは、経験も歴史も可能な限り無知なヴェールに包み込むからこそできる体験なのだと思う。本当に無意識だけど、猫暮は何か読むたびにこのヴェールを身にまとっている気がする。猫暮、わりと駄文も大好きなのだ。

強烈なパンチラインで「読書とは過去の人が残したクソを見てありがたがる行為だ」なんて記述を見かけたりもする。なんて過激。

でも、うなずける部分も大いにある考え方です。

そのクソに真面目な付加価値があると本気で信じているからこそ、世の読書家は自分自身の立ち位置や考察、構造を面白がることができる。「どうだ、この世界は高尚なのだろう」といった世界観を保有することができる。

でも、そんな世界観に「あなたのやってきたことはク〇遊びだよ」っと突き付けられて「ああ、自分のやっていることが泥遊びならぬク○遊びだったんだ」と、認められる人がこの世にどれかけいるのでしょうか。おそらく、その一線を切り捨てられる方は、少なくとも周りにいない。noteを見てもごくごく少数。誰かしらそこかしこに付加価値を付けたがっているように感じるのです。


ああ、自分がちょっとダダイズム的な思想とかシュルレアリスムをかじっちゃったナンチャッテ思想家になりつつあることは自覚しています。でも、ちょっぴり読書界隈をかじっただけの猫暮でさえ、世の無益を嘆く書籍が五万と存在していて現在まで脈々と受け継がれている現状に気がつく。

でも、じゃあどうして人々の執着は止まっていないのだろうと、疑問がやまないのです。

「一切皆苦」をありがたそうに口伝している人の敬虔な気持ちが、私の頭の中ではすっかり行方不明。仏陀の残した〇ソをいじくりまわしているだけでは飽き足らず、たくさんの付加を加えてさらなる充足を求めている。なんという矛盾だろうか。なんという罰当たりなのだろうか。

といいつつ、分かりにくい原本を一般凡人にも分かりやすくかみ砕いてくれる世の翻訳家には感謝の気持ちでいっぱい。猫暮もまたク〇にお金を払って、悦に浸っているのです。

おそらく、まともで居てしまったのなら、正気で居てしまったのなら、手元に握られていたモノの正体が排泄物だったなんて現実にとても向き合えない。ある程度、思考を捨てなきゃ、やってられない現実が目の前に降り積もってしまうのでしょう。

猫暮は非生産的な日常、ならぬ、排泄的な日常を今日も過ごしてゆくのです。

…いや猫暮クン。君はペシミズムがすぎるじゃろ。
よう生きてこれたな。

――生きてるよ!
でもめっちゃ生きづらいねん!
こんなことばっか考えてるからね!(急にキレる若者問題)





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