過去記事をさらりと振り返る
自宅のモニターが愛猫に壊されちゃったお話。また、その状況から立ち直る過程でいろんな思考を巡らせていた自分に驚いたお話。
過去の私の記事は読んでいて楽しい。とんだナルシストだと思うだろうか。でもそういうわけじゃない。過去の私が書いた記事は今の自分に書くことができない。「え!こんな記事書いたっけ?!」とびっくりしちゃうばかりでその時の心情も経緯も思い出せない。当時の私は事細かく綴っているけど、今の私じゃ「モニター壊れた。悲しかった」しか感想が湧いてこない。
文章を書くって、自分の想いを切り取って捨てることに等しいんだと、改めて思った。外部に冷凍保存させて、そのまましまっちゃう。掘り起こされることはそうない。掘り起こしたとき漫画とかアニメにありがちな回想シーンとかが脳内で忠実に再現されたらいいんだけど、それもない。今物置に放り込んだ壊れたモニターを前にしても、「ああ、壊れてるな」くらい。悲しさも怒りも何もわかない。そんなのはただの事実でしかないし、気持ちの面でもとっくに吹っ切れている。
なんだかんだ代打で活用している小っちゃいモニターがいい仕事をしてるしね。これで十分。足るを知る。よく、生活水準を上げると元に戻れなくなるって話を聞く。収入が下がっても生活スタイルは落とせないから結果的に経済難に陥るみたいな話。
猫暮には、それがない。どこまでも生活を落としていけるらしい。むしろ貧困としているほうが活き活きとする。過去に比べたら物理的な問題はテクノロジーで改善されてきているし、高望みしなければわずかなサブスクライブ料金で十分な生活が賄える。なんなら、今の猫暮はよくブックオフとかで100円200円に中古書籍を買いお家で読み更けってることが多い。本をえり好みしなければKindleの月額980円プランで、無限に可処分時間をつぶすことだってできる。時代に逆行している気すらする。
お金を稼ぐ必要がないのであれば、平穏でお金の使わない毎日を過ごしたい。いつか記事で書いたけど、猫暮は食のこだわりもない。生粋の味音痴だし、食べれればなんでもおいしいと感じちゃう。
ただ、確かにおいしいものはおいしいと思う。その感性はちゃんとある。スシローより築地市場で食べた新鮮なお寿司のほうが数段おいしかったし、お高めの熟成肉だって好きだ。でも、そんなちゃんとした感性を持っているうえでいえてしまう。別に、もう一回食べなくてもいい。食べれるなら食べたいけれど、食べれないことでマイナスになったりしない。市販のカレーで満足できるし、パック詰めのお寿司でもおいしくいただける。ただの白飯でも、めちゃくちゃありがたいって本気で思える人間。時に、手作りのハンバーグが高級料理を越える感動をもたらすことだって知ってる。
あと、安心して寝られるならそれでいい。なんだか、今日の私はずっとずっと平穏を望んでいる。頑張らないと平穏にならない平穏って何だろう。
それにしても、過去の私は面白い文章を書く。なんか、真面目になっちゃったなぁ最近の私。なんで自分自身に嫉妬してんねんって感じだ。もっと貪欲に書くことを楽しんでいたはずなのに、下手に書くお仕事をはじめたもんだからお行儀よいお澄まし顔になっちゃったのか。もちろん、この変化に良いとか悪いはないんだけれど、もっと実験的で常識に囚われないでノビノビ書けていたなと、振り返って思う。
理由はいくつかある。
・人の目を気にしてしまうようになったこと。
・さる事件をきっかけに自信を持てなくなってしまったこと。
・結局、つき詰めると『正解に近いもの』が見えてきてしまうこと。
うーーーーーーーーん。ダメかも。今日は考えれば考えるほど袋小路に陥る日だ。そんな日は、思考を全部吐き出しきって、集中しよう。
これ以降は、おウチのコピー用紙に吐き散らかします☆
多分固有名詞とかバンバンでてくるからね…とてもここには載せられない。ってことで思考の整理に行ってまいります!
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