これから

3月15日、0時45分 最愛の母がこの世を去った。去年の6月末に癌が発覚し、もうステージ4で悪性だった。それから短いのか長いのか父と変わりばんこしながら介護し、自宅で看取った。亡くなる4日前くらい、不思議な夢をみたことを今でも忘れられない。介護に疲れ昼間数分睡眠とるのが日常になっていてその日はやけに晴れていた。ポカポカして暖かく、いつもより眠りが深かった。私は夢の中でも寝ていた。正面玄関がバタバタと音がする。父さんが郵便物でも置いてるのかな?と思いダラダラとカラダを這わせ正面玄関へ。するともう歩けない母さんがニコニコしながら買い物袋をもって正面玄関に荷物を置いていて、

××ちゃん、また寝てるのー?ぐうたらやねえー、なんて。笑ってて。私は全然頭がついていけなくてとりあえず怪我したらダメだと思って母さん、荷物持つよ!危ないから待ってて!と言うと病気になる前の母さんがよく、お母さんは力持ちだからこれくらい大丈夫!と笑って玄関から歩いていったのを覚えている。当時、もう歩行困難で全部介助必要であったし、車イスにだって1人では乗れなかったからあんなスタスタ歩いてく姿、いつぶりだろう?なんて思い老けていた。私が手伝うよ!と言ったら返事はないままタイミングよく夢から覚めた。私は早々母さんの寝ているベッドに近づいたけどそこには寝ている母さんがいた。痛みが症状として出始めてきていた頃なので当然表情も硬い。やっぱり夢だったのか、とションボリしながら夕飯の準備をした。数日後、痛みが酷くなりついには眠れなくなり、薬も効かなくなって、家族全員で眠るように天国へ行かせてあげてください、とお願いし、母は日付を超えるまで頑張って日付を超えた時、呼吸がおかしくなった。眠ろうとしてたけど慌ててみんな呼んでみんなが母さんに呼びかけていた。滅多に騒がない父親でさえも取り乱してこんな広い家でお父さん1人残して逝くな!と心臓マッサージしていた。一回息を吹き返したがすぐに止まった。時間を見れば0時45分 カレンダーには仏滅と。毎日お薬手帳にシール貼ってたけどちょうど最後のページで終わった。不思議なことに何もかもすっぽりだった。

葬儀の手配、お墓整え、お返しの準備、最近ようやく終えた。父は透析を受けながら広い家で愛犬の愛斗と一緒に暮している。父は眼も悪く、歯も悪い。定期的に受診しなければならず難聴もあるので高度難聴ではないけどもコミュニケーションをとるにはすこし不便。いつしか家族同伴で、と病院から言われるようになった。行かなければ催促の電話が来るのだ。

昨日は父の白内障オペだった。レーシック治療しているのでレンズ入れれないみたいな説明だったと思ったが違ったようで最初から入れる予定であったと。旦那にはお前の勘違い、と言われる始末。これ以外にもいささかトラブルの連続であったため、私もイライラ。旦那は同職なのでその手の流れや説明がわかるのかもしれないが私にしてみたらはあ?だ。父は父で知っていたように最初からレンズ入れるし!と。わたしだけ除け者か、と思った。私はふてぶてしい気持ちを抑えきれずにいると旦那は後に電話であの上からの対応?配慮がないけどあの人は最低限仕事やってるから。後は受け取り方次第だよね。一応クレーム言っといたけど。と。

私が悪いのか?と言いたくなり同席してくれたのはありがたかったけど腹立つから電話切るわ、言うて切った。その後ライン来たが返す気持ちもない。イライラが止まらないのだ。そういえば母がいた時は母がいつも話を聞いてくれていた。悪口ばかり言う私に、そうだね、うん、そっか、と。否定もせず肯定とも呼べない、ただ聞いてる相槌。今となっては唯一の理解者だったのだな、と。唯一の理解者がいない今、私にとってこの世界は生き辛い。結婚生活も性の不一致で辛い。出来ればもう独り身になりたい。でも何かとそうなれない。と、すれば、、

父が死んで、愛斗が死んで、一周忌終えたら私の人生も終えたらいいじゃないか?と、思ってしまった。それまでにやるべきことを迷惑かけないように数年かけてやっていく必要がある。それを踏まえて今後の人生を楽しんでいこうと思う。


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