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この画像を無断転載しないでください


16類型の性格診断をホグワーツの組み分けに当てはめた画像

この画像を作ったのは私だ。
「転載しても構わない」と明言した覚えは一度もないが、画像だけが切り取られて拡散されている状況が2021年ごろから続いている。韓国アイドル界隈でMBTIが流行したことが原因のようだが、私は正直なところ関知していない。
デザインの著作権は別の方にあるのだが、内容は片桐が考えたものなので、私とデザイン者の方の共同著作物である。

ここで明言しておくが、無断転載禁止だ。
「ハリポタではない自ジャンル用の寮分けに」改変した画像が出回ったりしたこともあって、その時は都度対応しているが、元画像についてはX,YouTube,TikTokはじめ基本的にあまりに転載が多いので放置していた。良くない対応だったと思う。

もともと画像を作ったのは10年近く前のことで、今となっては有名な「16Personalities」のサイトも存在しない時期だった。私は16類型の性格診断についてさほどまじめに、深く考えているわけではないし、心理学の専門家でもないので、そのようなきわめてあいまいな基準で自分を、あるいは他人を勝手にジャッジすることに深い懸念を覚えている。

10年間のあいだにブラッシュアップする案も何度か出たが、そもそも私自身がもうあまり興味が持てなかったのか改善案が出せなかったので、「これはそもそもお蔵にした方がいい」と結論付けた。
元画像を掲示しているサイトは削除済だ。現状ネットにアップロードされている画像はほぼすべて無断転載だ。

その上、自分はハリー・ポッターという作品にファンとしてもう関与していない身なので、これ以上画像に対して責任を取れない。

※以前「画像について引用・言及したうえでMBTI/16Personalitiesに基づいた自分なりの解釈を加えたい」といった方には、こちらから直接コンタクトを取ったうえで個別で許諾を出しておりましたので、そうした手続きを踏んだ方に関しては許諾を出したままの対応とさせていただきます。


どこで何を間違えたのか、もう私にはわからない

ハリー・ポッターが好きだった。完全に過去形だ。

このアカウントではどれくらい好きか具体的に言及することは控えていたが、ある時期はジャンルで一番有名な夢書きだった。
晒しスレに書かれた「腹立つが原作愛と考察は本物」みたいなコメントを見て笑顔になっている、相当に性格の悪い字書きだったが、偏屈でない字書きはこの世にいるのだろうか。

サイトのカウンターもpixivのブクマも大したことはないが、同人誌は数百冊捌けた。pixivのブクマより本が売れていた時期もざらにある。名前変換機能がなかった当時はpixivに夢小説を投稿するモチベーションがあまりなかったので、普通に乗り遅れた。

ジャンルを上がったきっかけはいろいろあるが、端的に「飽きた」だけでは割り切れないところがある。
大元になったのは2020年以降のJKローリングのトランスヘイト発言だ。ダニエル・ラドクリフやエディ・レッドメインなどが発言を支持しないメッセージを出したが、俳優は原作者というよりIPそのものとの契約がある以上映像作品への出演は断れない。

とはいえ、特に映画「リリーのすべて」で実在のトランス女性の芸術家リリー・エルベを見事に演じたエディの発言は頼もしかったし、何より私は「リリーのすべて」のレッドカーペットで、エディに「幻の動物とその生息地」の教科書にサインをもらったことがいちばんの思い出だった。

だが、手元にある「トランスヘイターの本」に「トランス差別に抵抗する俳優のサイン」が書かれている。その事実がだんだん受け入れがたくなってきていたし、何よりエディに対して申し訳ない気になっている自分がいたのも確かだ。
――エディ・レッドメインは「幻の動物とその生息地」の主演なのに?

ダメ押しになったのはゲラート・グリンデルバルド役のマッツ・ミケルセンが、日本のイベントでブラックフェイスのファン(ユスフ・カーマのコスプレイヤー)との写真撮影を受け入れたことで、私ははっきりとジャンル自体に失望した。

ユスフ・カーマはFB2に登場するセネガルにルーツを持つ黒人のキャラクターだが、母親を白人であるレストレンジ家の人間に凌辱され、レストレンジへの復讐を誓った人物である。キャラの背景には当時のフランスが行ったアフリカ(特にセネガル)での植民地主義や政策が関わっていることも、当然念頭に置かなければならない。

そもそもマッツ・ミケルセンはDV疑惑(のちに無罪)で訴訟沙汰になってキャンセルされていたジョニー・デップの代役としてキャスティングされていたのだが、JKローリングの差別発言に対してこのような発言を出している。


シス男性の白人という特権を持つ立場から放たれるこの「無関心」に私は同調できずにいたが、彼は黒人差別に対してもあくまで「無関心」なスタンスらしい。

ノンポリであることは良いことなのだろうか? ただの現状追認ではないだろうか?

そして、マッツ・ミケルセンやJKローリングの発言に沈黙を貫くこともまた現状追認ではなかろうか。
それがジャンルをやめた直接のきっかけだった。
LGBT法にまつわる議論で日本中のトランスヘイターが噴き上がっている時期に参考文献を数十冊提示した文章を出してアカウントを消したが、何人があの文章を読んだのかわからない。

ハリー・ポッターの読者であった人間はローリングの発言を通して、トランス差別と向き合う時間は十二分にあったはずだ。なぜトランスジェンダーについての本を読まず、当事者の声を聞かず、差別を是認し、日本国内におけるトランスヘイトをここまで増長させてしまったのか。そういった無念が絶えなかった。

そもそもローリングの監修が入っていない「ホグワーツ・レガシー」にはトランス女性のバーテンダーSirona Ryanが登場している。バーテンダーという職がトランスジェンダーのステレオタイプであることに批判はあるが、IPそのものにトランスヘイトの汚名が着せられているコンテンツに登場させられただけでも意義はあるだろう。

英語版の声優はトランスジェンダー当事者が担当している。

「トランスジェンダーの存在は見えないし、考えたくない」などという言説は「原作や派生コンテンツのすてきな魔法界」に触れているだけでも、もはや許されない。

私は何を推していたのだろう


で、ジャンルをやめて思ったのは、「トランス差別に反対している人間は、私がジャンルをやめるより前にとうにローリングに愛想を尽かしている」という事実だった。結局のところ現在のファンはローリングの発言を容認する=ファンを続けるも同然の状態だったので、差別反対と声をあげることも、そもそも無駄だったような虚しさを覚えている。

「公式」のある一面のムーブに目をそらすか、ヘイトに便乗するか、ジャンルをやめるか。その三択しか実質的な選択肢が許されていないのであれば、思考を止めて推し活する方が楽なのかもしれない。

ほどなくしてジャニー喜多川の性犯罪が大きな問題となり、続いて宝塚におけるいじめ(報道ではいじめと呼称されているが加害やパワハラ、暴力とすべきだろう)と俳優の自死が問題になり、日本における「推し活」の根源的な不健全さが一般人にも明るみになった。
その時私は、「何かを推していなくてよかった」とほっとした気持ちでいた。

私は、結局今まで何を推していたのだろう。今も考えるが答えが出ない。
あれだけ好きだったスネイプ先生を映画で見ても、舞台で見ても、本で読んでも、もう何も感じない。
愛の反対は無関心とよく言ったものだが、今は「推し」に恋愛感情のようなものや二次創作をしたい気持ちや、深堀りしたい気持ち全部が消えて、ただ無関心でいる。

私が差別という概念に敏感になったのは、好きだったスネイプがマグル生まれのリリーなどを「穢れた血」と呼ぶ差別主義者だったからだ。
そしてスネイプ自身単なる差別主義者の悪役という枠には収まらず、その中でも「人は差別をやめられるし、変わることもできる」と示したキャラクターだったからだ。
このメインキャラの心境の非常に大きな変化は、『ハリー・ポッター』という作品のひとつのテーマが「差別への抵抗」であることを象徴している。

だが原作者が「差別はやめられるし、人は変わる」といった希望的な読解に逆行した発言を続けるのなら、スネイプの作中の行動に果たして説得力はあるのだろうか。

時間はかかったが推しに対して無関心になれてよかったと安堵している一方で、私は「推し」に対して薄情な人間に見えるのかもしれない、と思う。愛が足りないし、原作者を無視してまで推すことは結局できなかった。

また、10月7日以降、ローリングはイスラエル-ハマスの戦争において明白にイスラエルを支持する言説を繰り返している。

私はもともと同人誌の売上の一部(Boostされた全額+α)を「国境なき医師団」に寄付していて、同人誌を制作していない今は毎月支援をしているため、ガザ地区で活動する国境なき医師団のニュースレターを読んでいる。イスラエルの悲惨さしかpostしたくないローリングとは、明白にスタンスが異なっていると認識している。


「言葉が常に人命を救えるわけではありませんが、沈黙は確かに人を殺し得ます」

(国境なき医師団スピーチより)


私は常に「壁と卵」の卵の側に立ちたいと明言していたし、卵の側の現状を知ってしまった今となっては、もう無邪気に「推し活」をすることは不可能だろう。差別は、沈黙は、やはり人間を殺すのだとリアルタイムで知ってしまった今となっては。



何かを推すことに疲れた人へ


やめたきっかけはほかにもあるが、波風しか立たないので今は言及しない。
ただ、ジャンル問わず何かを推すことに疲れた人に、「推し離れ」(親離れみたいでいやな響きだ)のために必要ないくつかのマインドセットを提供したい。

ひとつめは、推すことは経済的投票であるということ。投票である以上は、倫理的問題がつきまとうこと。

「推し活」という行為自体が極めて資本主義的な構造を孕んでいる以上、推すことと経済活動は今のご時世あまり切り離せない。

「グッズを無限回収しているわけじゃないし」というスタンスのひとも、よもや原作を違法視聴しているわけではないだろう。

あなたが何かを推すことで儲かるひとがたくさんいて、そのなかには明白に邪悪な人物がいたりして……まあ人物ひとりならその人をキャンセルすればいいのだけれど、もっと大きなそもそも論として、業界そのものに問題があったりする場合も多い。で、後者の場合は「悪者がいない」ケースもままある。

たとえば、業界の内部で労働している人は「いいものを作ろう」「上質なコンテンツを届けよう」「団結して頑張ろう」と本気で思っていて、それがコンテンツを通じて美談になっていたとしても、構造自体が搾取的なので労働者に全然還元されていない実情があったり。別にジャニーズや宝塚やハリポタの話ではなく、もっと大きな話をしている。

誰かの人権を侵害したり、やりがいを搾取したうえで成り立つコンテンツを消費するのがしんどいと感じたら離れるのは手だし、手っ取り早い。

激安アパレルの底に深刻な労働問題が横たわっていることを知って、それをあえて買わずに通り過ぎるのと同じように、推し活だってエシカルでいいと思う。それは極めて小さな一票かもしれないが、票は票だ

ふたつめは単純接触効果について。個人的には大きかったのかなと思う。

人生で初めてグッズを断捨離して、おそらく数十万円程度の値段が付く本30冊ぐらいをスタジオツアー至近の商店街(普通に商店街のトップと昔から付き合いがあるだけなので可能だっただけです、マネしないでください)にまるごと全部寄付した。手元にほとんどグッズが残らなくなってしまったが、結果としてスタジオツアー周辺に住んでいて、今からハリー・ポッターを読みたい人に渡ったのならそれでいいのかなと思う。

SNSをいったんやめたのも大きかったし、グッズを手放すことに執着がなくなった。一人暮らしの家に前ジャンルのグッズはほぼ置かないようにしたので、目に入れる機会が減った。

私はもともとあまりモノに頓着しない方なので、趣味絡みのグッズが消えてもあんまり気にしない性質なのはあるかもしれないが、こういう割り切り方もある。

みっつめは、痛みを受け入れること

アラン・バディウとニコラ・トリュオングは『愛の世紀』でこう指摘している。

「恋愛は、リスクが皆無の状態において生に贈られるプレゼントなどではありえないと考えます。それは『死者ゼロ』の戦争について、アメリカ軍が行ったプロパガンダを少しばかり思い起こさせます。」

『愛の世紀』

推し活はイージーだ。相手とディープな人間関係を構築・維持する手間をスキップして、相手からの「供給」を受けることができるという意味では、自炊せずに済む入院中の流動食に近い。安全と快適さが担保された中でなにかを「推せる」というのは、大変に「便利」で、しかも感情をすり減らさずにプラスのエネルギーだけを受け取れる営みのように見える。

だが、あなたが人間である以上、痛みのない人間関係は存在しないし、葛藤のない人間関係も存在しない。

「推し活」はあなたのリアルの人間関係とは切り離されているように見えるかもしれないが、では「推し活」のなかで生じたあなたの痛みすらもフェイクとしていいのだろうか。そうだとしたら、あなたの歓喜もやはりフェイクなのだろうか。
そこに、「推し活」を「安全なもの」という逃げ道として逃避してしまったあなたへの落とし穴がある。

痛みを実存するものとして受け入れる。推し活を人生の地平の一つとしてとらえる。推し活が持つ価値基準と、それらを取り払った「自分」自身の価値基準を一つずつ峻別していく。

「推すこと」は対象を遠ざけ物象化する営みではないだろうか。自分が楽をしているだけではないだろうか。ファンレターやコメントを送るとき、あるいは批判をするときに、画面の向こうに人間がいる、とか、そのひとには「仕事」とは別のプライベートがある、とか、そういうことを考えたことはあっただろうか。
なかったのだとしたら、それはどういう心理から来たのか。

こうして考えると、推しから離れていく行為というのは失恋ではなく依存からの脱却なのかもしれない。まあ、「推される側」も仕事でやっているのだから共犯関係と言えばそうなのだけれど。

今書いているトピックは「推し活最高!推し活続けたい!」というものではないので、かなりシビアな結論になってしまう。

だが、「わたしが推しを推すこと」と「わたしと推しがプライベートも仕事も健康であること、あるいは倫理的に生きられていること」は当然両立するし、そうである限りは推し活は悪いことだとは思わない。それは一対一の人間同士の生のなせる営みだからだ。

だったらそういう「推し活」が当たり前になるように、自分を変えてみませんか。

この画像を無断転載しないでください


キャッチーなタイトルからずいぶん話がそれているように見えているかもしれない。だが意図的なものだ。
この記事の元タイトルは「推し活をやめた」だった。

実際のところ私が「二次創作」した中でもっともバズってしまったのは小説ではなくあの画像だ。
数年かけて100万字以上書いた小説ではなく、たった一日で作った一枚の画像が延々擦られるというのも、皮肉な話ではある。

SNSですぐに転載されるのでインプレッションが正確に測れるわけではない。だが掲載していたサイトはGoogle Analyticsを参照する限り、5~6年前の時点で月間120万PVを超えていた。全員がサイトを見ていたとは思えないので、実際に参照されていた数は数十倍に膨れ上がっているはずだ。

作者は誰だろう、と考えはしなかっただろうか。
みんな転載しているからいいか、と考えはしなかっただろうか。
なぜ元サイトが消えているのだろう、と考えはしなかっただろうか。
いい加減ブームが過ぎた画像だし、何を言っても構わない、とか考えはしなかっただろうか。
作者は何も言っていないからいいか、と考えはしなかっただろうか。

ガビガビのjpgと化したネットミームを作った裏にも人間はいて、どう考えても論理的に、学術的に精緻に作られたわけではない画像をうっかり流行らせてしまい、作者は誤った性格診断の片棒を(しかも数年かけて)担いでしまったことに責任を感じている、とか、そういうことを考えたことはなかったのだろうか。

ネット上でつくられたどんなものにも、画面の裏に人間がいる。
手軽にリポストした画像にも。

リプライや引用リポストで誰かを称賛したり、叩いたりするあなたの「推し活」の前に。

一度「あなたが見ている液晶画面の向こうに誰かがいる」「あなたのポストを世界中のあらゆる人が見ている」のだと、立ち止まってみることは、できませんか?