百人一首についての思い その77

 第七十六番歌
「わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波」   
 法性寺入道前関白太政大臣
 舟に乗って大海原に漕ぎ出してみると、久しぶりのきれいな空の彼方に、雲と見間違えるばかりの沖の白波が立っています。
 
 Rowing out on the vast ocean,
 when I look all around
 I cannot tell apart
 white billows in the offing
 from the far―off clouds.
 
 法性寺入道前関白太政大臣とは、第七十五番歌に出てきた藤原忠通のことである。崇徳天皇が上皇になられたときのお祝いの席で忠通が詠んだ。室町時代に書かれた『応永抄』という百人一首の解説本には、以下のようなことが書いてある。
「海上遠望をよめり。心は明か也。これは我舟にのりていへる心也。歌のさまはたけありて余情かぎりなし。眺望の歌などにかくれたる所はあるまじき也。ただ風情をおもふべきとぞ」
 
 だが、果たしてそうなのだろうか。「保元の乱」では、藤原忠通は勝者になった。そして、あろうことか崇徳院を流罪に処した。このとき、忠通が武士を政治に介入させ、武士の台頭が進み、やがてそれは「元寇」では武士の大活躍で祖国防衛ができた。しかし、後には後白河上皇によって閉門処分を受けた。閉門というのは、全ての権限、財産、身分を剥奪されるという思い処分であるそうだ。
 
 小名木さんによれば、太政大臣の職を現代でというと、内閣総理大臣、国会両議院議長、最高裁判所長官、宮内庁長官、陸海空軍の総帥を全部兼任するほどの権力者だったそうだ。この藤原忠通は、その太政大臣の地位に37年も就いていた。超長期政権である。
 藤原氏代々は娘を天皇に嫁がせることで、一族の繁栄を保ってきた。政治とは距離を置き、権威のみを保持する天皇と姻戚関係を持つことで、他の貴族とは違う地位を保った。藤原忠通は、上皇であった崇徳院を罪に陥れた。そして、武力を政治に介入させるという過ちを犯した。そういう意味では罪深い人間である。
 
 だが、武士の台頭がなければ、「元寇」でモンゴルの兵隊に立ち向かう武装勢力はいなかった。つまり、その時は悪人呼ばわりされても、後世から考えれば立派な人であったなどということはよくある。何が正しくて何が悪いのかは、人の浅い知恵では計り知れないということだろう。そして、まるで「元寇」に備えるかのように、平和な時代であるのに武士が台頭してきたという、まさに神の深謀遠慮としか言いようがない事態に驚く。
 
 一族の繁栄ばかりを考え、藤原摂関家の権威を貶めた上に、貴族社会の凋落を招く結果を呼んだ人物だということで、「法性寺入道」とし、さらに「前太政大臣」を付け足すことで暗示したのだろう。それが藤原定家の感性だったのなら、本当に恐ろしい男だ。
 

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