百人一首についての思い その80
第七十九番歌
「秋風にたなびく雲のたえ間より漏れ出づる月の影のさやけさ」
左京大夫顕輔(あきすけ)
秋風にたなびく雲の切れ目から、漏れ出でる気の光の、なんと澄み切っていることよ。
Autumn breezes blow
long trailing clouds.
Through a break,
the moonlight―
so clear, so bright.
左京大夫顕輔の本名は、藤原顕輔であり、藤原俊成とともに『久安百首』の編纂に携わった。さらに、崇徳院から『詞花集』の編纂を命じられた。要するに、当時の歌壇の中でも非常に秀でた人であり、崇徳院にも可愛がられもした人物である。
崇徳天皇は、わすが五歳で即位した。十歳の時には藤原忠通の長女聖子(きよこ)を妻に迎える。だが、まだ子ども同士なので、子ができなかった。だが、崇徳天皇が二十歳のときに、女房として仕えていた兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)の間に、重仁(しげひと)親王が誕生した。
藤原忠通としては非常に困った。藤原一族以外の血筋の親王が生まれたのでは、藤原一族のためにならない。切羽詰まった藤原忠通は、鳥羽上皇を動かして、崇徳天皇を退位させた。わずか二歳の近衛天皇が即位された。しかし、近衛天皇は十七歳で夭逝した。そこで、崇徳天皇の実弟の後白河天皇が即位される。
保元の乱は一般的には崇徳院と後白河天皇の争いだとされている。要するに、だれとだれがどのようにくっついて争うのか。争った結果、勝者となった側はどんな得をするのか。そのようなことが見えていたから、大きな争いになったのだろう。経緯が複雑なのでここでは触れないが、はっきりしているのは、崇徳院はそれなりに多くの人から慕われていたということだ。
顕輔は崇徳院を明月に譬えた。「今では明月は雲の間に隠れている。しかし、秋風がたなびく雲の切れ間から、月の光がさしてくる。崇徳院の威徳は世の中を照らしている。」そのように詠んだ。
顕輔の歌が崇徳院の歌の次に配置されたのも、定家の深い配慮によるものであった。
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