亡き妻を思う


 斉藤史の歌の一つにこんな歌がある。
 曼珠沙華葉を纏ふなく朽ちはてぬ咲くとはいのち曝しきること
「咲くとはいのち曝しきること」であるとは言い得て妙だ。私の妻の死因は「自然死」だった。死亡診断をしてくれた医者が言うには、「この人は体の全ての資源を使い切りお亡くなりになりました」と。私はこれを聞いて非常に嬉しかった。私の妻は「命を曝しきった」のである。
 
 そこで、亡妻のために挽歌を詠んだ。

 ありし日の亡き妻思う我が胸に迫り来るのは深い悲しみ

「大好きなあのピッツァがもう食べられない」妻の嘆きが聞こえるようだ

 真夏なり残された身に迫り来る寂寥こそは唯一の友
 
 車椅子君を乗せて押したときあまりの軽さに言葉失う

 タベリーナ・フトリーナの仇名付けたのに空しくやせたままで逝ったね

 我が胸に響く残響妻よ妻君亡き後の空しき響き

 パリ五輪一緒に見ようと言ったのにおいてぼりの我が絶望
 
 着信音絶えて久しい君のスマホ廃棄躊躇う私の孤独

「されど、死ぬのはいつも他人ばかり」マルセル・デュシャンの言葉が響く

 経を読み南無阿弥陀仏馬鹿野郎俺を残して先に逝くとは

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