カイザルのものはカイザルに返せ

カイザルのものはカイザルに返せ
 
 始めにお断りしておくが、この文章は特定の宗教を非難しているのではない。ただ自分には合わないと申し上げているに過ぎない。
 したがって、特定の宗教を信仰していらっしゃる方がこれをお読みになって、お怒りになられて、怒鳴り込んで来られても困るので誤解なきようにお願いする。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラムといった世界的に信者の多い一神教では、神は自分に似せて人を作ったと言われているらしい。
 しかし、私に言わせればあらゆる動植物の中で、一番悪質な出来損ないは人間である。他の動物は一日の食糧を確保するための狩りをすれば、それ以上は決して貪らない。
 ところが人間だけは自分達の宗教、国家、民族、部族、のみが正しいとか価値があるとか言い争い、ついには戦争を起こしてまで領土拡張に励む。毎日暮らしていくには決して困らないだけの富があっても、もっともっと富を増やしたがる。
 こんな質の悪い生き物が他にいようか。私もその一員であるので、貪欲にならないように自戒しながら暮らしているが。
 さて、そんな悪質な人間と神様が似ているわけはない。だから、人間が自分の悪いところを全部切り捨てて完璧なものに仕上げたのが神という概念に近いと言わざるをえない。
 というわけで、私は一神教を信じていない。しかし、キリストの言葉は時折、妙に心にひっかかる。
 キリスト教徒ではなく、イエスよりも二千年も後の世に生まれた日本人の私には、イエスの言葉にはある種の分かりにくさがある。
 マタイの福音書(以下マタイとのみ記す。その他も同様)22:15-22(22章15節-22節まで。以下同様に記す)、マルコ2:13-17、ルカ20:20-26に出てくるイエスの言葉について考察してみたい。それは税金を巡る言葉である。
「ところで、カイザルに税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、かなっていないでしょうか。」
 ここで問われているのは人頭税というローマ帝国に対する税金のことだという。収入の多寡に拘わらず、一人一人に同額に課されていたという。お金持ちにはさほど影響はないかもしれないが、貧しい家庭には深刻な負担を強いることになる税金であった。
 現代の日本でも、国家が増税に踏み切ろうとすれば、大きな反対が巻起こる。そのことを考えると、祖国を武力で侵略した支配者のために税金を払うことに対しては相当の反発があったとことは想像に難くない。
 さて、イエスが「カイザルに税金を納めることは律法に適っている」と答えたとしたら、ユダヤの民衆は黙ってはいない。そのように答えた時点でたちまち、民主の心はイエスから離れてしまう。
 そして、もしイエスが「律法に適っていない」と言えば、ローマに反抗する者というレッテルを貼られる。ローマ の総督に訴え、ローマの官憲に引き渡す絶好の口実を得ることが出来る。つまり、どちらに転んでもイエスは窮地に追い込まれる。
 イエスはデナリオン銀貨を見ると、「これは、だれの肖像と銘か」と尋ねた。尋ねられた人々は「カイザルのものです」と答えた。当時のデナリオン銀貨はローマ帝国の通貨あり、ローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていたという。
 皇帝の肖像と銘が彫られていることを認めた彼らに対して、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言った。
 イエス は、貨幣に皇帝のものが記されていることを理由に、ローマ帝国に税金を納めることを認めたのだ。しかし、「税金を納めること は律法に適っている」とは言わなかった。 イエスはカイザルのものをカイザルに返すと同時に、神のものは神に返すべきだと言ったのである。
 その意味するところは、現世の支配者に従うべきは従わねばならないが、神に服従する道をも忘れるなと念を押したのだろうとうことまでは分かる。
 
 イエスが語ったことは、政治的な事柄については皇帝の支配に服し、信仰上の問題については、神の指示に従えということだと読まれることもあったらしい。ただ、私たちの生活は、信仰の部分と政治的部分というようには区別できない。
 イエスの「神のものは神に返せ」という言葉について考えてみたい。
 キリスト教では、現世の者は全て神が創造したものであるから、「神のもの」とは、地上のもの全てを指すのだろう。だから、「皇帝のもの」と言われるものも根本的には神のものなのだという解釈が成り立つ。
 この地に立てられた支配者、権力、国家もまた神のものだということであろう。つまり、現世を生きる人々は、ただ信仰を神に捧げるということだけでなく、この地に立てられている権力にもまた、納めるべきものを納めて行かなくてはならないということであろう。
 この世で自らが置かれている支配の中で責任を果たすことと、神に自らを捧げていけということをイエスは言っているのだろうと思われる。
 この地のものすべては神のものであるというはキリスト教の考えであるが、被造物の中でも特に人間のことを指すのだろうと思われる。
 イエスは、カイザルの肖像と銘が彫られていることから、これを「皇帝のもの」と呼んだ。そうであれば、神の肖像と銘が彫られた ものこそ、「神のもの」であるし、創世記の第1章27節には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって 創造された」とある。そのことこそ人間が他の被造物と異なる点だ。つまり、イエスは、人間が自分自身を神にお返しせよと言っているのだ。
 私たちは、自分は自分のものであると考えている。自分の持ち物や自分が働いて得たものは自分のものであると考えるのです。しかし、自分は、神の像が彫られている「神のもの」であ り、私は、自らを神に返すべきものであることを知って生きよと言うのだ。おそらく、それが伝統的なキリスト教徒の解釈なのだろうと思う。
 さて、キリスト教徒ではなく神の存在など信じていない私は、どのように解釈すればよいのだろうか。
 キリスト教徒ではない私には、「神のもの」などはないとしか思えない。 しかし、自分の「命」そのものが自分のものではなく、数多の人々に育まれたものであり、無数の動植物の命をもらった結果が、今日の私の命としてつながっているものだとうことも素直に認められる。
 つまり、私の命とはいつかは天にお返ししなければならないものだ。何か訳があってこの世に生を受けた以上は、その命をお返しする日が来るまで心静かに生きるしかないのである。
 

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