百人一首についての思い その74

 第七十三番歌
「高砂の尾上の桜咲きにけり外山のかすみ立たずもあらなむ」 
 前中納言匡房(まさふさ)
 遠くの高い山に頂に桜が咲いているので、手前にある低い山並みに霞が立たないでほしいものだ。
 
 How lovely the cherry blossoms
 blooming high
 on the mountain peak.
 May the mists in the foothills
 not rise to block the view.
 
 大江匡房は天才だった。菅原道真に並ぶ碩学だった。後三条天皇の治世には「延久の善政」と呼ばれる様々な改革があった。天皇は政治を行わないが、その政治に権威を与える。
 
「大化の改新」で進められた公地公民制度も平安中期には新田開墾に伴い私有地が増えた。つまり、民草は天皇の民ではなく、貴族や豪族に隷従する民になった。そこで、後三条天皇を支え、律令制度を再構築し、内裏の再建、財政基盤の確立などの政策を打ち立てたのが、匡房である。
 
 特に大切なのが、「延久の荘園整理令」である。。後三条天皇による荘園整理例はこれまでにない徹底ぶりで行われ、有力貴族や大寺院の不正荘園にもメスを入れた。今までにない本格的な荘園整理令を実行に移すことができたのは、公平な人事があってこそのことだと言える。これで藤原家の摂関政治を終わらせた。藤原家の摂関政治は短命に終わり、院政に繋がる。
 
 また、匡房は、物価安定のために以下の2つの政策を行った。一つは、估価法(こうかほう)の制定で、貨幣やモノ同士(米や絹など)の交換の際の、公的な交換レートを制定した。また、農産物や商品の多さを計るための枡の大きさを公的に定めた。これにより、地方ごとに異なっていた升の大きさに一つの国内基準が出来上がりました。この後三条天皇が定めた升の大きさを延久の宣旨枡と呼んでる。
 
 さらに、「延久蝦夷合戦」によって、奥州も平定された。奥州の民草は奥州豪族の私有民から天皇の「おほみたから」になった。つまり、「ウシハク」による統治ではなく、「シラス」による統治の復活である。そして、朝廷の財政は潤うようになったが、私有地をなくした摂関家は財産を失った。そこで、朝廷の中には「かすみ」が立つ。それが「ウシハク」に固執する勢力であり、「外山のかすみ」である。ところが、現在の学校教育では「延久の善政」を教えていない。残念なことだ。
 
 いつの世にも、世の中を立て直すための改革を目指す勢力もあれば、それに抵抗し既得権益を守ろうとする勢力がいるものだ。既得権益を守ろうとする勢力の抵抗は凄まじい。だから、既得権益潰しに挑む勢力は、自分も返り血を浴びることを覚悟して、事態に対処しなければならい。
 

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