文化と習慣

文化と習慣
 
 文化とか習慣というものは東洋と西洋では大きく違うのは自明のことだが、二つの事柄を取り上げてどんな意味があるのかを考えてみたい。このようなことは、数多の先人が試みているだろうけれど、私は自分の言葉と自分の考えで繙いてみたいと思う。
 
 まず、一つ目は郵便を出したり、届けてもらったりするための住所の書き方を取り上げよう。
 日本人ならば大きい範疇(神奈川県など)から小さい範疇(横浜市中区など)に移るというのが当然だという意識があるだろう。私自身に中国や韓国ではどうなのかという知見がないので、この部分は日本を以て東洋の代表とする。悪しからず。
 それに対して、欧米などではピン・ポイントの個人の住んでいる場所(小さい範疇)から、徐々に大きい範疇に移る。
 
 残りの一つは、全く別のことを取り上げたい。
 新約聖書マタイによる福音書7章12節には、「己の欲する所を人に施せ」というイエスの言葉がある。
 また、『論語』の衛霊公第十五には、子貢問うて曰く、「一元にして以て終身之を行うべきものあるか」とあり、さらに「其れ、恕か。己の欲せざる所を人に施す勿れ」と続く。
 
 これら二つのことからだけでは、西洋と東洋の違いを論ずることはできないが、少なくとも私たちに理解できることがある。それは、西洋では個人を中心軸にして考えや行動が広がるということであり、日本(東洋)ではその逆である。
 
 イエスの「己の欲する所を人に施せ」という言葉からは、西洋の思想では自己を中心軸にして、善行を施せと言っているのが分かる。一方、『論語』の「其れ、恕か。己の欲せざる所を人に施す勿れ」という部分を読むと、東洋では他者を中心軸にして「人の嫌がることをするな。」と説いているのが分かる。
 
 このことから、西洋では愛であるにせよ、善意にせよ他人からの働きかけを快く思い、好意を持って受け取る傾向があるのではなかろうか。
 
 一方、東洋ではどうだろうか。まず、「恕」とは何か。恕とは、己の心を推して人を思いやるということだ。だから、東洋では他人からの働きかけはたとえそれが愛や好意から出たものであれ、余分なことはしないほうが良いと考える傾向があるのではないか。
 
 つまり、好意を有り難く感じる西洋の人たちは、他人にも同じ有り難さを感じてほしいと思うから、「己の欲する所を人にも施せ」という考え方になるのではないか。一方、他人からの迷惑を強く意識する東洋人は、同じ迷惑を人におよぼさないように「己の欲せざる所を人に施す勿れ」と考えるようになるのではないか。
 
 前者はキリスト教の「人間愛」にもとづく博愛精神であり、後者は儒教の「恕」にもとづく道徳観念なのだろう。
 人間愛や博愛の中に愛の押しつけとエゴイズムを嗅ぎ付ける東洋人は、自己抑制とその上に成立する慈しみや思いやりの方向に向かわざるを得ない。
 
 個人から他者へ向かう発進の仕方と、他者への思い遣りから個人の守るべき規範を考える文化というようにも考えられる。
 
 しかし、現在の中国狂産党政府並びにその属国の南超賤には、「恕」という考え方はないようだ。いつでも自国のみが正しくて、他国政府は間違いであると決めつけるのだから。
 それとも、「恕」という概念は元々国益などとはそりが合わない性格のものだと考えていて、別々に取り扱うとい原則なのか。
 
 中国の若者達が見せた反日行動は、単なる暴動と略奪であり、平和的に自己主張をするデモからはほど遠い。その背景には「愛国無罪」という狂惨党政府が押し出した愚かで幼稚な考え方がある。このツケは、いずれは狂惨党政府に向かう。天に向かって吐いた唾は、自分に返ってくるのだ。
 
 天に向かって吐いた唾は自分に返ってくるという証拠が早速現れた。さて、もうひとつ。自分が正しいとしか言えない、他罰的かつ幼児的頭脳しか持ち合わせない南超賤の現状はどうだろうか。まずは、以下の三つの記事をご覧いただこう。
 
 日本企業による中国への投資は3割減少し、その代わりにインドやベトナムなどの東南アジア諸国に大幅に増えた。当然のことである。従来の日本企業は、チャイナ・リスクを知りながら、巨大市場の幻惑に悩まされ、決断ができなかった。
 しかし、ここにきて中国の抱えるリスクの大きさに気が付き、そして中国の購買層は一部の富裕層のみだと今更ながら理解し、ようやく中国一辺倒の姿勢を転換さぜるを得なくなったのだ。
 
「其れ、恕か。己の欲せざる所を人に施す勿れ」という孔子の知恵は、儒教発祥の中国には残らなかった。儒教の国と常々唱えていた南超賤は、ただの強欲で低民度の国とお里が知れた。
 
 孔子の知恵は、日本で細々と生き続けている。しかし、いくら孔子が忍耐強くても、こまでひどい仕打ちを受けると怒るだろう。
 
 新約聖書のローマ人への手紙12章19節には、こんな言葉がある。
「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」。
 
「復讐するは我にあり。」である。これは「我」つまり守が復讐する係であるから、お前達人間は復讐してはならない、という意味である。
 
 さりながら、キリスト教徒ではない私としては、水に落ちた犬は徹底的に叩いて、恐怖心を植え付けねばならないと思う。中国の中華思想にせよ、他罰的で低脳の超賤民族には、日本に対しては、今後はいちゃもんを付けてはいけない、ということを徹底して理解させたい。
 

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