方丈記5

そして、長明31歳の時には大地震が発生した。それは元歴二年のことだ。
原文
また同じころとかよ、おびただしく大地震(おおない)ふること侍りき。そのさま世の常ならず、山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわお)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は足の立ち処(ど)を惑はす。都のほとりには、在々所々堂舎塔廟ひとつとして全からず、或は崩れ或は倒れぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。家の内にをれば忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるはただ地震(ない)なりけりとこそ覚え侍りしか。かくおびただしくふることは、しばしにて止みにしかども、その名残しばしは絶えず、世の常驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたその名残三月ばかりや侍りけむ。四大種のなかに、水火風は常に害をなせど、大地にいたりては、異なる変をなさず。昔、斉衡(さいこう)のころとか、大地震(おおない)ふりて、東大寺の仏の御首(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこのたびにはしかずとぞ。すなはちは人みなあぢきなき事を述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。
 
現代語訳
『また元暦二年(1185年)のころ、大地震が襲った。その有り様は尋常ではなかった。山は崩れて川を埋め、海では津波が発生して陸を襲った。地面は裂け水が湧き上がり、岩は割れて谷に落ち、渚をこぐ舟は波に漂い、道を行く馬は足元が定まらない。
まして都の内外では、至るところあらゆる建物は一つとしてまともなものはない。あるものは崩れさり、あるものは倒壊する際に塵が舞い上がり煙のようだ。地が揺れ家が壊れる音は雷のようだ。家の中に居たならたちまち押しつぶされかねない。走って飛び出せばまた地面は割れてしまう。人は羽をもたず空を飛ぶことはできない。また龍でないので雲に上るわけにもいかない。恐ろしいもののなかでとりわけ恐るべきものは地震なのだと実感したことだ。
そういった中に、ある侍の六、七才の一人息子が、築地塀の蔽いの下で小さな家を作ったりして、他愛もない遊びをしていたのだが、この地震で急に塀が崩れて埋められ、無残に押し潰され、二つの目は一寸(3cm)ばかりも飛び出してしまった。その子供の遺体を父母が抱えて、声も惜しまず嘆き悲しんでいるのは、まことに哀れであった。子供を亡くす悲しみには、勇猛な武者も恥じを忘れてしまうのだと改めて気づいた。これは気の毒だが当然のことだと思われる。
このような激しい揺れは短時間で止んだのだったが、その名残りの余震はその後絶えず続いた。普通にびっくりするほどの強い地震が、一日に二三十度は下らない日はない。十日、二十日と経過していくと、だんだん間遠になって、一日に四五度となり、二三度、あるいは一日おき、さらに二三日に一度など、おおよそ余震は、三カ月ばかり続いただろうか。
四大災害の中では、水火風は常に害をなすのだけれど、大地震は(大地に至りては殊なる変をなさず)むかし、齋衡(854~857年)のころとかに大地震があり、東大寺の大仏の頭部が落ちたりといったひどい被害があったが、それでも今回の地震ほどではなかったという。その当時は人々は互いにどうしようもないことを嘆きあって、心の憂さを晴らしているように見えたのだが、年月が経過してくると、このような災厄を日常の話題にのせる人もなくなってしまった。』
 
元歴二年七月九日に文治地震というのが起きた。震源は南海トラフだった。相当な規模の大地震だったと言われる。マグニチュードは7.4程度だったらしい。今日の都では法勝寺や宇治川橋が損壊した。
そして、同年八月十四日に改元があった。新しい年号は「文治」である。この時は後鳥羽天皇が在位中だった。元号の出典は、『礼記』(祭法)の「湯以寛治民、而除其虐、文王以文治」による。勘申者は藤原兼光(参議・右代弁)。
この他にも候補があり、最有力候補は「建久」だったが、摂政の近衛基通(もとみち)がこのように申し立て文治になったという。
「先の源平の戦いで武力によって天下が平定された今、これからは文治をもって統治すべきである」
 文治元年十一月二十八日、北条時政が奏請していた、源頼朝による守護・地頭の設置を認める「文治の勅許」を与えた。守護・地頭の任免権を手に入れたということは、地方の警察権を手入れたことと同じであり、御家人に対する本領安堵・新恩給与などの統治権を手にいれたことになる。
 しかし、頼朝はまだ安心できなかった。奥州藤原一族がその繁栄を誇っていた。だから、いずれは藤原氏を攻めなければならなかった。たまたま、平家打倒に数々の武功を挙げた実弟の義経が奥州の平泉に潜伏中だと判明した。
 義経は戦には強かったが、頼朝の許可を得ずに、官位を受けたり、平氏との戦いに於いて独断専行が多かったりしたので、頼朝の怒りを買い対立した。後白河法皇は人気の高い義経を利用して何かを画策しようともした。このことは、頼朝にとっては、義経が謀反を企んでいるのと同じだった。
 そこで頼朝は朝廷に働きかけて、藤原秀衡の息子の基成と泰衡に義経追討宣旨を出させたが、すでに亡くなっていた父・秀衡の遺命に従って、その宣旨を拒否した。最後には泰衡追討宣旨が検討されそうになった。ことここに及んでは泰衡も義経を急襲し、義経は亡くなった。
 
一方、泰衡は義経の首を差し出して頼朝に許しを請うたが、頼朝は応じず自ら軍を率いて、奥州藤原氏討伐に乗り出した。そして、文治五年八月七日から十日までの間に阿津賀志山の戦いで藤原軍に大打撃を与えた。ついに藤原氏は滅びた。父親の遺命は大切だが、時の権力者の意向を無視しては長らえることなどできないことくらい理解していただろうにと、泰衡の軽率な判断が惜しまれる。三代目というのは、存亡の危機に遭いやすい。
こうして治承・寿永の長い乱は終わり、鎌倉時代に移るのである。
 

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