和歌史11

 京極為兼(ためかね)登場
 十三世紀の終わりから十四世気の半ばにかけて、一目でそれと分かる得意なスタイルの和歌を詠む一派があり、それを京極派と呼んだ。それはこの一派の指導者京極為兼の名前に由来する。京極為兼は定家の曽孫である。定家の家筋「御子左家」は孫の代に家領の争いから為氏の「二条家」、為教の「京極家」、為相の「冷泉家」の三家に分裂した。
そして、定家が定めた『小倉百人一首』には、『玉葉和歌集』と『風雅和歌集』に登場する歌人は、誰一人として選ばれていない。定家よりも後代の人々なので、当然と言えば当然の話だ。そして、綺羅星の如く輝かしい活躍を数十年続けた後は、その足跡がぴたりと途絶える。その理由は、余りにも政治に関知しすぎたらである。
 為兼は、持明院統の伏見院の下命により『玉葉和歌集』の撰者になった。その後、土佐に配流され、帰京を果たすことなく没した。『為兼卿和歌抄』という歌論書を著した。伏見天皇に密着することで持明院統の宮廷・後宮を基盤にして京極派が形成された。
 
 
『玉葉集』にある彼の自撰の歌を見てみよう。
 そこには古典を大切にして、そこに自分をどのように調和させるかという当時の歌の常識はない事が分かる。
 
 思ひそめき四の春の時にははるのうちにもあけぼのの空 
 玉葉集・春下・一七四
 最初に心にしみたのだ。四季の中では花咲く春が、そして春の中でも曙の空が。
 
 この歌は、『歌苑連署事書(かえんれんじょことがき)』という『玉葉集』を批判するための歌学書に、「日頃から自信作だと自負しているという噂だ。けれど、ただ『春の曙』がいいといっているだけではないか」と批判されている。京極派以外の人々には理解できなかったのだ。
 
 月のこる寝覚めの空の時鳥さらに起きいでて名残をぞ聞く 
 玉葉集・夏・三四○
 寝覚めて時鳥の声を聞いた。有明の月が残っている空をその余韻に浸りながら味わっている。
 
 渡辺教授によれば、聞こえないはずの時鳥の声を、まるで他人が聞き損なっているかのように聞き顕しているということだ。ただ、私には何が面白いのかは理解できない。
 
 枝にもる朝日の蔭の少なさに涼しさ深き竹の奥かな 玉葉集・夏・四一九
枝から漏れる朝日の光は少なく、奥深い涼しさを湛えている竹林の奥よ。
 
 外は明るいのに、竹林はほの暗い。さらにその奥は暗い。明暗のグラデーションの妙をうまく表現している。これは私にも分かった。
 
 露おもる小萩が末はなびきふして吹きかへす風には花ぞ色そふ 
 玉葉集・秋・五○一
 露が重たげに起き、小萩の葉末は靡き伏していたが、吹き返す風に霞が散って花を色鮮やかにした。
 
 重い露に靡き伏していた萩を、風が吹き返した。その時、ぱっと露が散った。その瞬間を描いていて、カメラのシャッター・チャンスをうまく捉えたような歌だ。
 
 木の葉なき空しき枝に年暮れてまた芽ぐむべき春ぞ近づく 
 玉葉集・冬・一○二二
 木の葉の散った何もない枝に年が暮れて、また芽ぐむことになる春が近づいた。
 
 年の暮れに花も葉も芽もない裸の枝を見て、そこに春の気配を感じる。まだ目に見えない春を引っ張り出そうとしている。
 
 波の上にうつる夕日の影はあれど遠つ小島は色暮れにけり 
 玉葉集・雑二・二○九五
 波の上に夕日が映っているが、遠くの小島はしっかり暮れた色合いだ。
 
 海上にはきらきらと眩しく夕陽が映っている。さらに、遠くの小島はしっかりと暮れていてシルエットになっている。まもなく、辺りはあの小島のように暮色で覆われることだろう。
 
 山風は垣ほの竹に吹きすてて峰の松よりまたひびくなり 
 玉葉集・雑三・二二二○
 山風は垣根の竹を吹いて通り過ぎた。すると峰の松からまた風の音が響いてくる。
 
 山風は垣根の竹を吹いて通り過ぎた。そう思っていると、また風の音が聞こえてくる。次から次へと山風が吹いて通り過ぎる。過去と未来の狭間に立ち尽くして感覚を研ぎ澄ましている。つまり、歌を詠んでいる為兼は、過去と未来の狭間という境界に立っているのだ。過去と未来の狭間に立つことで、現在を強調しているとも言える。
 
 頼むべき神とあらはれ身となれりおぼろけならぬ契なるべし 
 玉葉集・神祇・二七五八
 頼もしい春日明神となって示現し、ついに我が身となった。ただならぬこの因縁よ。
 
 春日大社にはアメノコヤネノミコトが祀られている。「頼むべき」なのは、藤原氏の氏神である春日大社のアメノコヤネノミコトが頼みとする神となって、出現した。そして、その神は今我が身となった。
 
 なるほど。いかにも政治的意志が強い為兼らしい歌のあり方である。
 
 第九十二代天皇であった伏見院は、後深草天皇の子息である。京極為兼は伏見院がいなければ頭角を表せなかっただろうし、何よりも伏見院自身が京極派の中心的人物でもあった。
 
 五十番歌合に露をよませ給うける 
 われもかなし草木も心いたむらし秋風ふれて露くだるころ 
 玉葉集・秋上・四六三 院御製
 私も悲しいだけではなく、草木も心いたむらし秋風がふれて露がこぼれ落ちるころ。
 
 私も、草木も同調して傷み悲しんでいる。季節の運行を司る自然には、意志があるのだ。その自然が私も草木も等しく感応させるのである。
 
 初春の心をよませ給ひける
 霞たち氷もとけぬ天地の心も春をおしてうくれば 
 風雅集・春上・六 伏見院御歌
 霞が立ち氷も解けた。天地の心もおしなべて春を受け入れたので。
 
「天地の心」は『為兼卿和歌抄』にも出てくる。自然の摂理、自然の運行を司る力のことだ。その力を感応することが天皇の務めと考えたか。
 
 
 さ夜ふけて宿もる犬の声たかし村しづかなる月の遠方 
 玉葉集・雑二・二一六二 院御製
 夜が更けて犬の声が高く澄んで聞こえる。月が村を閑かに照らす、そのはるか遠くから。
 
 番犬の声で村の静謐な生活を表現した。
 
 永福門院は、西園寺実兼の娘で、伏見天皇の中宮であった。嘉元三年(1305)『永福門院歌合』を主催した。『玉葉集』には四十九首入集(第八位)、『風雅和歌集』には六十八首(第二位)入集するほどの京極派の中でも活躍が目立つ人であった。
 
 秋の御歌の中に
 うす霧の晴るる朝けの庭見れば草にあまれる秋の白露 
 玉葉集・秋上・五三六 永福門院
 薄切りが晴れた明け方の庭を見ると、草葉から余るほど秋の白露が置いている。
 
 露は儚いものの代表的なものであるが、逆説的にそれが秋の生命力を顕した。
 
 待恋の心を
 音せぬが嬉しき折もありけるよ頼み定めて後の夕暮れ 
 玉葉集・恋二・一三八二 永福門院
 連絡がないのが嬉しいときもあったのだ。信頼していこうと心に決めてからの夕暮れには。
 
 不安や動揺を幾たびも乗り越えて、心の平安に辿り着いた。そのような心を形にして見せたという点では、他の京極派歌人とは違っている。
 
 花の上にしばしうつろふ夕づく日入るともなしに影消えにけり 
 風雅集・春中・一九九 永福門院
 花の上にしばらく夕陽が指していた。しかし、日が没したのも気がつかないうちに、その光はきえた。
 
 日没にさえ気がつかないほどに花をみることに没入していた。その心の深さを夕陽の光が消えた後で気がつくという表現で表した。忘我と覚醒のあわいさの境界の深さを表した。それも必要最低限のことばだけで顕したのだ。
 
 寒き雨は枯野の原に降りしめて山松風の音だにもせず 
 風雅集・冬・七九七 永福門院
 雨は寒々と枯れ野一面に降りしきっていて、いつもの山の松風の音さえも聞こえない。
 
 山の松風の音にわびしさが募る。枯れ野には雨が降りしきる。寒々とした雨の音に包まれてしまう。寂しさが窮まる。しかし、寂しさが窮まっても心は揺らがない。
 
 京極派は明確な「歌風」を持っていた。それ自体は得意な現象だと渡辺教授は言う。特に叙景歌の分野では、実際に芽で見ているような、肌で感じているような現実感に富んだ描写力がある。そして、情景と我のあわいさ、忘我と覚醒のあわいさ、さまざまな狭間や境界を際立たせた。
 

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