百人一首についての思い その22

 第二十一番歌
「今来むといひしばかりに長月の有明けの月を待ち出でつるかな」 
 素性法師
「すぐに帰ってくるよ」という言葉を信じて待っていたのに、あの人は現れず、とうとう晩秋の明け方の月が出てきてしまいました。
 
 As you said, “I’m coming right away,”
 I waited for you.
 through the long autumn night,
 but only the moon greeted me
 as the cold light of dawn.
 
 素性法師の俗名は良峯玄利(よしみねのとしはる)である。現役の時には左近将監という役職に就いていた。戦前の陸軍大将のような地位にあったということだ。つまり、武将であることを放棄して、出家したのである。
 
 そうだとすれば、戦で亡くなってしまった部下達を供養するのために出家したのではないかとも考えられる。実際に、彼は部下達の慰霊の旅に出ている。戦に出て行った夫、あるいは息子を思って、大切な人がいつ帰ってくるのかと待っている女性のことを思い浮かべて、素性法師はこの歌を詠んだのだろうと考えられる。
 
 先の大東亜戦争でも、玉井浅一という人が、部下の関行男大尉の実家を訪れ、母サカエさんに向かってこう言った。
「自己弁護になりますが、簡単に死ねない定めになっている人間もいます。私は若い頃、空母の艦首に衝突しました。ですから、散華された部下たちの、その瞬間の張り詰めた恐ろしさは、少しは分かるような気がします。せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈らせてください。祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが……」
 その後、彼は日蓮宗の僧侶になり、海岸で平たい小石を集めた。小石に亡き特攻隊員一人一人の名前を書いて、仏壇に供えた。そして、彼らの供養を続けた。
 
 昭和39年5月、江田島の旧海軍兵学校で戦没者慰霊祭が行われた。日蓮宗の枢遵院日覚(すうそんいんにちがく)という僧侶が着座した。僧侶の前には白木の位牌がずらりと並んでいた。その僧侶は、玉井浅一さんだった。玉井さんが沐浴し、ひとつひとつの戒名を書いたのだ。読経が始まると、慟哭、啜り泣き、嗚咽が漏れてきた。読経の声、かつての戦友、かつての部下達の遺族がひとつの心に溶け合ったのだ。そう思うと、素性法師の和歌は、やはり部下を大切にしてきた日本の戦人の伝統が底辺にはあるのだ。
 

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