西行の足跡 その21

19「人来ばと思ひて雪を見るほどにむ鹿跡付けることもありけり」 
 山家集上・冬・533
 もしも今人が来たら嬉しいには違いないが、足跡が残るのも残念だ、と思って雪を見ていると、見ているうちにも鹿がまるで人が来要に足跡を付けている、などとうこともあるんです。
 
「小山田の庵近く鳴く鹿の音に驚かされて驚かすかな」 
 山家集上・秋・440
 山田の番小屋を私の山家にしていると、鹿が近くまで来て鳴くのでつい眠りから覚めてしまう。私も鹿をびっくりさせて追い払ったりする。 
 
「驚かされて驚かすかな」というのは、なかなか手の込んだ表現だ。鹿が、眠っていた私を「驚かす」起こしたのなら、私は鹿を「驚かす」、つまり、鹿をびっくりさせる。古語では、「驚かす」にはびっくりさせる、目覚めさせる、起こす、という意味がある。また、西澤教授の解説では、「驚かす」には、煩悩からの覚醒を意味する目覚めの意味も重ねて、山田しか守れない、鹿しか驚かせられない不徹底な出家だと自重する意識が読み込んであるという。
 
「山田守る案山子(ほそづ)の身こそあはれなれ秋果てぬれば訪ふ人もなし」続古今集・玄賓(げんぴん)
 僧都にまで出世したとはいえ、山田を守る案山子と同じ、哀れな身の上である。秋が果て稲の収穫も終われば見向きもされなくなる。人を覚醒させる「驚かし」の役割を今はもてはやすが、すぐにすっかり飽きられて誰もおとずれなくなる。
 
「ひたぶるに山田守る身となりぬれば我のみ人を驚かすかな」 
 詞花・雑上・能因
 古曾部に籠もってすっかり「山田守る案山子の身」となったので、人を驚かすのも私だけ、便りをするのも私だけ、になってしまったのですね。
 
「わが宿に庭よりほかの道もがな訪ひこん人の跡付けで見ん」 
 山家集上・冬・532
 私の山家に庭を通らないで来道があると良いのだが。訪問客の足跡を雪に付けずにずっと見ていたいもので。
 
「待つ人の今も来たらばいかがせん踏ままく惜しき庭の雪かな」 
 和泉式部 詞花・冬
 私の待っているあなたがもし今来たらどうしましょう。庭に積もった雪は踏むのがもったいないくらい美しい。
 
 人の訪問も待ち遠しいし、庭の雪の美しさも見続けていたい。さあ、困った、どうしよう。そのような意識が和泉式部の歌にはある。恋しい人が訪れてくるのを待つのはとても切なくも期待に満ちた時間を過ごすことでもあるからだ。
 一方、西行の歌には、「庭よりほかの道」があってほしいと言う意識がある。しかし、深く考えなくても、冬の山里を訪れる人などいるはずもない。
「山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば」 
 源宗于(むねゆき) 古今・冬
 山里は冬が一番寂しい。人も来ないし、草も枯れると思えばなおのこと。
 
 この歌は小倉百人一首にも入集しているのでご存じの方も多いだろう。
 

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