方丈記4

そして、長明27歳の時に、養和の飢饉が起きた。
 
原文
また、養和のころとか、久しくなりて覚えず。二年(ふたとせ)があひだ、世の中飢渇(けかつ)して、あさましき事侍りき。或は春夏ひでり、或は秋大風、洪水(おおみず)など、よからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとくならず。夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。これによりて、国々の民、或は地をすてて境を出で、或は家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行わるれど、さらにそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすればも、さらに目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金(こがね)を軽(かろ)くし、粟(ぞく)を重くす。乞食(こつじき)、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声耳に満てり。前の年、かくのごとく、からうじて暮れぬ。あくる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ、疫癘(えきれい)うちそひて、まさざまに、あとかたなし。世人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水(しょうすい)の魚(いお)のたとへにかなへり。はてには笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したる者、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香(か)世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり。いはむや、河原などには、馬車(むまくるま)の行き交ふ道だになし。あやしき賤山(しづやま)がつも、力尽きて、薪さへ乏(とも)しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らいが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価(あたひ)、一日(ひとひ)が命だに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に赤き丹(に)着き、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを、たづぬれば、すべきかたなき者、古寺に至りて仏を盗み、堂のものの具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻(め)をとこ持ちたる者は、その思ひまさりて深き者、必ず、先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子ある者は、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子のなほ乳(ち)を吸ひつつ臥せるなどもありけり。仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ数も知らず、死ぬる事を惜しみて、その首の見ゆるごとに額に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四五両月を数へたりければ、京のうち一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の路のほとりなる頭(かしら)、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬる者多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地(へんち)などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや。崇徳院の御位(みくらい)の時、長承(ちょうじょう)のころとか、かかるためしありけりと聞けど、その世のありさまは知らず、まのあたりめづらかなりし事なり。
 
現代語訳
『また養和のころ(1181年)だったろうか、二年間ほど、世の中に飢饉が続いて、表現できぬほどひどいことがあった。春夏の日照り・干ばつ、秋冬の大嵐・洪水など、悪天候が続いて、五穀がことごとく実らなかった。春に田を耕し、また夏に植え付けの作業をするが、秋に収穫し、冬に貯蔵するものがなにもない。こんな有りさまなので諸国の民は、あるものは国を捨て、あるものは自分の家を忘れ山の中に住む。さまざまの祈祷がはじめられ、とびきりの修法も行われたがその兆候も出ない。京の都の日常では田舎の産物をたのみにしているのに、それもすっかり絶えた。京に上る者もなくなり、食料が欠乏してきたので、取り澄まして生活することはできなくなってしまった。耐え切れなくなって、さまざまな財産を捨てるように売ろうとするが、てんで興味を示す人もいない。まれに売れたとしても、金の価値は軽く、粟は重く評価される。物乞いが道ばたに多く、憂い悲しむ声は耳にあふれる。
前の年はこのようにしてようやくのことで暮れた。翌年こそは立ち直るはずと期待したのだが、あまつさえ疫病が発生し蔓延したので、事態はいっそうひどく、混乱を極めた。
世間のひとびとが日毎に飢えて困窮し、死んでいく有さまは、さながら水のひからびていく中の魚のたとえのよう。しまいにはそこそこのいで立ちをしている者が、ひたすらに家ごとに物乞いをして歩く。衰弱しきってしまった者たちは、歩いているかと思うまに、路傍に倒れ伏しているというありさま。屋敷の土塀のわきや、道ばたに飢えて死んだ者は数知れぬばかりだ。遺体を埋葬処理することもできぬまま、鼻をつく臭気はあたりに満ち、腐敗してその姿を変えていく様子は、見るに耐えないことが多い。ましてや、鴨の河原などには、打ち捨てられた遺体で馬車の行き交う道もないほどだ。
賤しいきこりや山の民も力つきて、薪にさえも乏しくなってしまったので、頼るべき人もいないものは、自分の家を打ち壊して、市に出して売るのだが、一人が持ち出して売った対価は、それでも一日の露命を保つのにも足りないということだ。
いぶかしいことには、こういった薪のなかには、丹塗りの赤色や、金や銀の箔が所々に付いているのが見られる木っ端が交じっていることだ。これを問いただすと、困窮した者が古寺に忍び込んで仏像を盗みだし、お堂の中のものを壊しているのだった。濁り切ったこの世界に生まれあわせ、こんな心うき目をみるはめになったことだ。
また、たいそうあわれなことがあった。愛する相手をもつ男女が、その想う心が深い方が必ず先に死ぬのだ。その理由は、自分のことを後にして、男であれ女であれ、ごくまれに手に入れた食べ物を、思う相手に譲ってしまうからなのだ。従って親と子供では決まって、親が先に死ぬ。また母親が死んでしまっているのに、それとも知らないでいとけない子供が母親の乳房に吸いついているのもいる。
仁和寺の大蔵卿暁法印という方が、このように人々が数しれず死んで行くのを悲しんで、僧侶たちを大勢使って、死体を見る度に、その額に成仏できるようにと阿(あ)の字を書いて仏縁を結ばせることを行った。死者の数を知るために、四月と五月の二月の間その数を数えさせた。すると京のなか一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀大路よりは東の区画(都の中心部)で、路傍にあった死体の頭は、総計四万二千三百あまりという。ましてやその前後に死んだ者も多く、鴨川の河原や、白川あたり、西の京、その他の周辺地域を加えて言うと際限がないはずだ。いわんや全国七街道を合わせたら限りがない。最近では崇徳院のご在位の時代、長承のころにこういった例があったとは聞くが、まことに希有なことで、悲惨なことであった。』
 
いや、もうため息しか出てこないような災難続きの時代である。火事・竜巻・遷都・戦争・飢饉と続く災難は、しかし、八百万の神々の日本人への試練なのだろう。辛い。本当に辛い。ただ、私が思うには辛いからこそ、現実から目を背けずに向き合えと神々は仰るのだと。
 
寿永二年五月十一日倶利伽羅峠で、木曾義仲の軍と、平維盛の軍がぶつかり、平氏は大敗する。加賀の篠原でも同様に平氏が破れた。義仲軍が京都に迫り、平氏は安徳天皇と建礼門院を報じて京都を脱出し、西国へと逃れていった。
しかし、平氏一考の中には後白河法皇の姿はなかった。後白河法皇は、比叡山中に身を隠していた。平氏が京都から姿を消すと、直ちに高倉天皇の第四皇子の尊成(たかひら)親王を践祚させて、第八十二代後鳥羽天皇とした。尊成親王は、坊門信隆の娘の殖子(しょくし)であり、安徳天皇とは異母兄弟に当たる。しかし、ここで明確にしておかねばならないのは、後鳥羽天皇の即位は、三種の神器がないままの即位だったことだ。三種の神器は、平氏が安徳天皇と共に報じて西国に持って行った。
さて、木曾義仲は、後鳥羽天皇の即位に対して異を唱えた。自分は以仁王の令旨に呼応して立ち上がったのだから、以仁王の血統が皇位を継ぐべきだと言ったのだ。語白柏法王は大変不快になられ、義仲追討を源範頼と義経兄弟に命じたのだ。平氏追討の最大の功労者である、木曾義仲は近江の粟津で、最期を迎えた。如何に正論を述べたとて、権力者には逆らえないのである。
 
後鳥羽天皇の即位に従い、代始改元として「元歴」に改元された。出典は『尚書考霊耀』(しょしょこうれいよう)にある、「天地開闢、元歴紀名、月首甲子、冬至」から。勘申者は藤原光範(文章博士)である。
この間も源氏と平氏の戦いは続いている。「一ノ谷の戦い」は寿永三年二月七日のことだ。此処でも平氏は敗れた。次の「屋島の戦いでも平氏は敗走する。最終決戦は「壇ノ浦の戦い」である。元歴二年三月二十四日のことだ。潮流に乗って途中までは平氏が有利だったが、逆潮になるに従い、平氏は不利になった。
平氏の敗北が明確になると、平清盛の妻である二位の尼(平時子)が、安徳天皇を抱き、入水した。このとき、天叢雲剣は永遠に失われたが、形代であったので、改めて形代としての剣を伊勢神宮の神倉から選び出されて、それが今の天皇家に伝わっている。安徳天皇の崩御まで、二人の天皇が存在していたことになる。
 

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