『方丈記』

『方丈記』は災害を詳細に描いた災害文学である。ここでは、岩波文庫版の『方丈記』に従って記載する。なお、元号については、『元号』全247総覧 東京大学史料編纂所教授山本博文編著を参照した。
 
 私は、日本の古典が好きだが、大学で勉強したわけでもなく、ましてや専門家・研究者などではない。ただの平凡な老人でしかない。したがって、間違いや勘違いもあろうと思う。しかし、まあ、できる限り調べられる範囲で調べてみて、自分の思ったことをまとめてみた。
 人口に膾炙している鴨長明の『方丈記』は、災害文学である。長明自身の個人的に満たされない事柄に関することや人生観ももちろん織り込まれている。
 しかし、これほど自然災害、人災について詳しく取り上げているのはやはり災害文学だからだろう。
 なお、『方丈記』の引用は岩波文庫版『新訂方丈記』市古貞次校注による。
 
 まず、最初の災害は長明が23歳の時の大火災である。これを太郎焼亡という。
 
 原文
 去(いんじ)、安元三年四月廿八日かとよ。風はげしく吹きて、静かならざりし夜、戌(いぬ)の時ばかり、みやこの東南より火出できて、西北にいたる。果てには、朱雀門(しゅしゃくもん)・大極殿(だいこくでん)・大学寮(だいがくれう)・民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰(ちりはひ)となりにき。火元(ほもと)は、樋口冨ノ小路(ひぐちとみのこうじ)とかや。舞人(まひびと)を宿せる仮屋(かりや)より、いできたりけるとなん言ひける。吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく、末広(すゑひろ)になりぬ。遠き家は煙(けぶり)にむせび、近き辺(あたり)は、ひたすら焔(ほのほ)を地(ぢ)に吹きつけたり。空には、灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅(くれなゐ)なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶがごとくして、一二町を越えつゝ移りゆく。
 其中(そのなか)の人、うつし心あらむや。或(あるい)いは煙にむせびて倒(たふ)れ臥し、或は焔にまぐれて、たちまちに死ぬ。或は身ひとつ、からうじて逃るゝも、資財を取り出づるにおよばず。七珍万宝(しつちんまんぽう)、さながら灰燼(くわいしん)となりにき。その費(つひ)え、いくそばくぞ。其のたび、公卿の家十六焼けたり。まして其の外(ほか)数へ知るに及ばず。惣(すべ)て、都のうち三分(さんぶ)が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人(すじふにん)、馬牛のたぐひ辺際を不知(しらず)。人のいとなみ、皆おろかなるなかに、さしもあやふき京中(きやうぢゆう)の家をつくるとて、宝(たから)を費(つひ)やし、こゝろを悩(なや)ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍(はべ)る。
 
 現代語訳
『さる安元三年(1177年)四月二十八日だったろうか。風が激しく吹き、騒々しい夜、戌(いぬ)の時(午後7~9時頃)、都の辰巳(東南)の方向から出火し、戌亥(北西)の方向に広がった。最後には朱雀門、大極殿、大学寮、民部の省まで燃え広がって、一晩のうちにすべて灰になってしまった。火元は樋口富小路であったそうだ。強く吹く風に火勢は増し、燃え広がる様子は、扇を広げたように、末になるほど広がっていった。遠い家でも煙にまかれ、近い家ではただ炎を地面に吹き付けるばかりだ。空は灰が吹き上げられるので、炎の光が照り映え、一帯が紅いに染まる。その中を、風に吹き切られた炎が一・二町を越えて飛び火していく。それに巻き込まれた人々は正気でいられただろうか。あるものは煙にまかれて倒れ伏し、あるものは炎に包まれてたちまち絶命してしまった。身体一つでかろうじて逃れたものは、家財を運び出すことはできなかった。貴重な財宝も塵となってしまった。その損害はどれほど莫大だったろうか。この大火で公卿の十六の館が焼けた。その外の焼けた家は数知れない。都の三分の二にもおよんだということだ。男女死んだ者数十、馬牛のたぐいは数知れない。人がなす営みはみな愚かなものだが、これほど危険な京のなかに家を作ろうと財を費やし、心を悩ますことは、大層愚かしいことなのだ。』
 
 安元という年号当時の日本はどんな状況であったのかを少し見てみたい。安元という年号の出典は、『漢書』の「除民害安元元」であり、勘申者は藤原俊経(右代弁)。災異改元(天災地変など凶兆とみられる現象をもって新しい年号に代える陰陽道思想)。
 同年六月一日(太陽暦七月五日)には、「鹿ヶ谷の陰謀」が発覚した。後白河法皇の近臣の藤原成親・藤原成経・西光・僧俊寛らが中心となったが,密告により発覚し,西光は死罪,成親は備前国に配流後殺害され,ほかは薩摩国鬼界ケ島に流された。
 そして、安元三年八月四日には治承と改元される。この元号の出典は、『河図廷佐輔』の「治欽文徳、治承天精」による。勘申者は藤原光範(文章博士)。
 
 太郎焼亡の翌年治承二年四月二十四日に起こった火災を次郎焼亡という。七条東洞院あたりから出火して,七条大路沿いに朱雀大路まで延焼した。二つの火災は人々に大きな不安を与え,末法の世の到来を印象づけた。さらに、治承年間には様々な事柄が立て続けに起きる。
治承三年十一月二十日には、平清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した。「鹿ヶ谷の陰謀」の後始末のひとつの段階である。治承四年二月二十一日、高倉天皇と清盛の娘徳子との間に生まれた言仁(ときひと)親王を践祚させて、高倉天皇に譲位を迫った。四月二十二日には言仁親王が即位し、第八十一代安徳天皇になった。清盛は、間か一年四ヶ月の安徳天皇の外祖父になったのだ。
 
 やがて、平清盛に対する人々の不満は高まる。後白河法皇の第三皇子の以仁王がその一人だ。以仁王は後白河法皇と藤原季成(すえなり)の娘の成子(せいし)の間に生まれたので、皇位継承者の資格は充分にあった。しかし、平滋子(しげこ)(建春門院)に皇位継承の目を潰されていた。
治承四年四月九日以仁王は「以仁王の令旨」を発した。諸国の源氏に平氏追討の令旨を発するようにと、以仁王に味方をしたのは、源三位(げんざんみ)の源頼政(よりまさ)である。だが、五月二十六日には追討軍に討たれてしまう。
 その後の展開はよくご存じだと思うが、その前にまず、次郎焼亡の次ぎに起きた自然災害を見てみよう。
 

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